BONNOU THEATER

ツイッターやってます(@bonkurabrain)。煩悩を上映する場。連絡先:tattoome.bt@gmail.com

家族は結局他人と他人の集合体にすぎない『フレンチアルプスで起きたこと』

 

『フレンチアルプスで起きたこと』を見たのだが、これまた見ていて息の詰まる2時間を過ごした。

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7月4日(土)公開『フレンチアルプスで起きたこと』予告編

 

家族4人でスキー旅行にやってきた家族が人工的に発生した雪崩が迫ってくることから、家族関係が歪んでいって…という映画。

これも数年前の映画なので、あえて長々とあらすじを書いたりはしたくないので、気になる人は公式ホームページまたはYouTubeで予告でも見てほしい。

 

この映画、「あるある感」がやばいのだ。(いろいろ探してるとジェーン・スーも同じようなことを語っていた)

miyearnzzlabo.com

しかし、厳密に言うと、「まったく同じような体験をしたことはないけど、この空気を知っている!」というあるある感なのだ。

父親が自分ひとりだけ逃げ出してしまう、という展開、これは「自分もしてしまいそう」という男という生物学上の根底にある本能の部分で不安を感じずにはいられない(動物ではメスが子供を守るというイメージが大きい分…)。それによって崩壊する日本でいうところの「大黒柱」としての信頼。それに伴った、もっとも気持ち悪い言葉で言うと「家族の絆」。

男はこの「大黒柱」としての信頼に死にもの狂いで食らいつく。自分は逃げていない、認識の違いだとのたまってまで…。スマホで動画を撮っているのを見せつけられても(ここまでしないであげて…とも思ったが、これもまた私の男としてのプライドなのだろう)、自己保身に走ろうとする。そして最終的にはなんか父親が大泣きしているところに子供が擦り寄ってきて、シラーーーーっとした空気が流れるのである。

 

私はフェミニストでもジェンダー活動家でもなんでもないし、そういう一種の力の構造には飲まれたくないと思っているが、この作品は嫌でも男性性、家族、その中でのロールプレイということについて考えざるをえなかった。

自分語りになってしまって嫌なのだが、私の父は私が幼少期の頃から鬱持ちであった。鬱持ちで家族内がどんよりした日がずっと続いているときもあった。しかし、一方でキレると手がつけられないという一面もあった。そんな父は恐怖の対象でもあった。正直言って大黒柱という一面よりも成人男性の幼児性にいつも向き合わされていたように感じる。私が高校生の時、父が母とのちょっとしたいざこざからブチギレて手が付けられなくなってしまい、これは刑事事件に発展するのでは…という状況でなんとかその場を収めたことがある。父はそのとき手を上げたことに謝罪するでもなく、ヘッドフォンを耳につけて音楽を聴き始めたのである。この光景は私にとって非常にショッキングなものであった。一方、母の事を「自分の母親でもある」と断言してしまう姿を見て、ドン引きすると共に、この生物は一体何なんだと思わざるをえなかった。

 

話がそれてしまったが、男性の中に存在する糞ほどしょうもないプライドと、糞ほどどうでもいい幼児性についてどう向き合っていくべきなのだろうか。これは間違いなく私の中にも存在するのであろう。社会から押し付けられた「男はこうあるべき」というステレオタイプなイメージが、少なくとも男としての大黒柱的プライド(頼れる父親、強い男)を築き上げている一旦を担っていることは確かであろう。そしてその姿をこの映画の母親も求めていたのだろう。また、この映画に出てくる髭モジャの男も女が言った小さいことを気にして寝れない、というまたしてもしょうもない幼児性をあらわにしてくる。男っていうのは幼児が大黒柱的イメージの衣をまとった姿でしかないのだろうなと思わされる。最後の父親がわんわん泣いているところに子供たちが寄り添ってくるシーンは、はじめて父親に子どもたちが積極的に近付くシーンである。幼児としての父を目の当たりにし、同じく幼児である子供たちは「かわいそう」とはじめてシンパシーを感じた行動なのではないか。逆に言うと、子供の幼児性につけこんだ父の幼児性とも言えるのではないだろうか。しかし、一方で子供達は子供達としてのロールプレイを果たしているシーンだとも言える。家族を再び構築しようとして…。正直辛すぎるだろこれ。そして最終的には、この作品の母親のように雪山でトラぶったとしょうもない芝居を打ってまで、男を立て、「家族の絆」というものを取り戻さなければならないのか。「家族の形」とはここまでツギハギなのか。答えは出ないけど、まったくキラキラしたものじゃねーな。家族というのはどこまでいこうとも、それは「人間と人間の関係」でしかないのだ。それは結局「他人と他人の関係」である。日本では「家族の絆」みたいなこれまた糞よりも役に立たなそうな言葉が氾濫しているが、家族は所詮ドミノと同じで、並べていったら一見すごいものになるが、ちょっとしたことですべてが崩壊する不均衡なものなのだ。残念なことにたまにしか会わない友人みたいなのとは違い、自分とは異なった人間と毎日一緒にいるぶんそのアンバランスな部分で均衡を保つのは難しい。

他人であるのだから過度な期待はするな。結局こういったところに帰着するのだろうか。私もパートナーを持つ者として、この自分の中に存在する「ガキ」と「オス」ということについて自覚して生きていかなければならない。もはやこれは雄の持つ病理なのだろう。

 

リリーフランキーが自身の鬱病について「鬱は大人のたしなみ」と言っていた。*1つまり、自分の中にある病気とどう付き合っていくかということだろう。これは自分の中に孕んでいる「オスガキ」的なことにも言えるのかもしれない。ただ結局はうまく付き合っていけとしか言えないのか…?

 

なんか男批判みたいになったのが釈然としないけれども…。

常に考えながら私たちは生きていかなければならないということか。

ただひとつ言えることは「家族の絆」なんてくそしょうもない言葉で現実から目を背けようとするな。

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(文部科学省『私たちの道徳 中学校』より)

本当にくだらん。 

 

このブログはこの映画について、夫から見た妻という視点についてもとても良く書けてたと思う。非常に参考になった。

https://chateaudif.hatenadiary.com/entry/20150731/1438343120chateaudif.hatenadiary.com 

世の中高生は『キミスイ』なんて見て、感性を腐敗させてる場合じゃない。

jzzzn.hatenablog.com

こういう映画を観ろ。これが現実だ。現実を観ろ。

男っていうのはしょうもない生き物なんだぞ。

家族ってのはキラキラしたモノじゃないんだぞ。

目を開け。

これがフィクションへの答えだ!『鏡の中の戦争』

カナザワ映画祭『世界陰謀論大会』にてクーロン黒沢氏の『鏡の中の戦争』を鑑賞した。ただただ、謎の太った漢(敢えて漢と表記する)君塚正太がインタビューで語る様子を永遠と見る映画なのだが、この君塚正太の経歴がものすごいのである。

  

鏡の中の戦争【予告編】 WAR IN THE MIRROR : TRAILER - YouTubeyoutu.be

 

君塚正太の経歴は以下の通り(シックスサマナHPより引用)。

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日本大学第三中学校卒、クラーク国際専門学校・ボディガード科卒。19歳にしてイタリア国家警察、フランス国家憲兵隊に少尉として赴任。世界各国の特殊部隊、フランス外人部隊の訓練にあたる。A級ボディガードとして、リトアニア大使、デンマーク大使、イタリア全権特命大使、フランス国家憲兵隊南仏司令部長官、フランス警察長官、フランス首相、スぺツナズ大隊長、イタリア国家警察主任、ノキア副社長、ストーカー被害者複数名、芸能人、会社社長二名、社長夫人……などの警護に当たる。アフガン戦争に小隊長として従軍。国際警察教官連盟にJP002として登録。これまで殺害した8千名の怨霊による戦争後遺症に悩まされながらも、タイの人身売買組織のメンバー47名を殺害し、20名以上の人々を救出。エジプトからリビアに潜入し三週間にわたって破壊工作を行ない、FBIからの召喚により渡米。訓練を経て連邦捜査官のIDを受け取る。

 

 

 

この映画のレビューを見ると、「病気」などと書いている人も多いが、単に「病気」として片付けてしまうと、この映画の一番面白い部分を見落としてしまうのではなかろうか。

 

確かに、この君塚正太という人物の危うさは画面からひしひしと伝わってくる。

この映画の冒頭は君塚正太が書いた小説『竜の小太郎』のアマゾンレビューを監督が見ているところから始まるのだが、レビューが2件のうち、1件がこき下ろす内容である一方、もう1件は絶賛の長文コメントであり、そのコメント内容が明らかに怪しい、「自作自演」を疑ってしまう内容となっている。ただ、それが自作自演なのかは誰にもわからないのだ

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「誰にもわからない」

ここが今作の一番面白いところであって、その他の君塚正太の数々の武勇伝に対してもそれを追及しようとしないのがこの作品をさらにいいものにしている。このブログの前回の記事では、『君の膵臓をたべたい』という何の役にも立たない映画について書いた。

 

jzzzn.hatenablog.com

 

そこで、「フィクションとはどうあるべきなのか」ということについて少し意見を書いたのだが、この映画はその答えを出しているのではないかと思うのである。

君塚正太の語り口を見ていると、本当に人身売買組織を一人で破壊したのではないか?しかしそんなわけないよな…。本当にボディガードをしていた相手を抱いたのか?いやいやそんなわけないよな…。という具合に、「本当なのかも」、「そんなわけない」とゆりかごのように思考がいったりきたりするのである。この映画から、私たちは、君塚正太が体験した(?)アフガン戦争を疑似体験できるわけではない。しかし、彼の語りからなんとなく想像ができてしまうのだ。

「ありそうでありえない」「ありえないけどありそう」このアンバランスな部分をこの君塚正太の人間性そのものが体現してしまっているのだ。この映画はあまり言いたくはないが、「フィクション」として分類されるのだろう。しかし、彼の存在自体は「ノンフィクション」である。その不確定さ、「いるけどいない」、「誰にもわからない」部分が多すぎるため、もはや私たちは「ドキュメンタリー」として扱うしかないのだ。

このギリギリの部分、紙一重さが私たちの心を掴んで離さない。

これこそが「フィクション」のあり方なんだと思う。

 

ちなみに、この君塚正太、ツイッターをやっている。

覗いて見ると、なんだかお金や節約、職業訓練的な話ばかりしていて、本当にこの人がボディガードをしていたのか!?憲兵隊にいたのか!?などと疑ってしまう。

しかし、彼のブログ

ameblo.jp

では13歳の時に少林寺の道場破りをした話や、5歳のときにレンジャー課程を修了した話など、これまた最高な文章が掲載されている。必読である。

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恐ろしいことに、この映画、アマゾンプライムに入っていると視聴可能である。今まで入ってなかったけど、これを機に入って再見するしかない。

 

War in the Mirror

War in the Mirror

 

 

 

 

ディストピア的現状を見せてくれる有り難い映画『君の膵臓をたべたい』

この間、なんとなく『君の膵臓をたべたい』を鑑賞した。


「君の膵臓をたべたい」予告

予告からしてきちーーーーーーーーーー。

結論から言うと「モテない陰キャ男子が日々のマスターベーションから生み出した妄想『純愛』映画」といった感じ。

kimisui.jp

(このサイトはなんなんだ…)

 

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キービジュアルもなかなかきついが、見ていて本当に腹立たしいシーンしかなかったので、ここに綴ろうと決意。

 

まず膵臓の病気に侵されているヒロイン。

『共病文庫』という自分の病気に関する日記をしたためているらしいが…。(まず日記のタイトルが気持ちわりー)

偶然それを拾って中身を見てしまった主人公をいろいろなところに引っ張りまわしていく。

挙句の果てには九州(どこに住んでるのかわからんけど)にまで連れて行き、ホテルを予約しており、酒を飲み、一緒に寝ようと誘ってくる始末。

正直言って怖いわ。こんな女いないだろ。

膵臓の病気云々の前に性病でも移そうとしてんのか?

更に、親のいない自分の家に連れ込み、死ぬまでにやってみたかったこととして「恋人ではない男性とイケナイことをしたい」とか言ってきて抱きついてくる。なんなんだこいつは。膵臓よりも頭の検査をしろ。

 

全体を通してみても、「こんな女いねーよ」という感想しか出てこない。

てめーの病気を逆手に取って人の人生狂わせてんじゃねー。

 

主人公も本当に陰気なキャラで、己の主張がまったくもって存在していない。

ただ振り回されるばかりで、「他人に興味がない」とか言っておきながら、お前に主張がないだけだろとしか思えない。途中でヒロインと仲良くしていることから、上履きをゴミ箱に捨てられたりしてたけど、お前本当にそれでいいのか…?

また、「他人に興味がない」と平気で言ってしまうような痛々しい男に対して、「一人で生きていこうとする姿」にとても憧れたというウソつけお前としか言えないような謎の展開にもげんなり。

少し気になって調べてみたが、柳下毅一郎氏も皆殺し映画通信で同じようなことを書いていたな。

www.targma.jp

 

極めつけは、「私は以前からあなたのことがずっと気になっていました」という、見ているこっちとしては、「あーあ。やっちゃった。」という感想しか出てこない糞展開。

 

そもそも病気で死ぬということが冒頭からわかっていつつも、途中で通り魔に刺されて死ぬという突拍子もない展開は、「どんでん返し」、「予想外」とは言わない。その通り魔が一体どのような動機で、なぜこのヒロインを殺したのか、殺す必要があったのか、まず刺された描写が微妙すぎてなにも感情が芽生えない。

 

あと、主人公がやる気のない教師という設定だけど、図書委員のよくわからないモブキャラに、自分の学生時代のあれやこれやをこんなに話さないだろ。年下に自分語りを永遠とする老害そのもの。恥を知れ。そして、クライマックスではヒロインの親友恭子の結婚式に乗り込んで遺書の存在を伝えて、メイクバッチリの状態を泣き顔でズタボロにするという他人についてはお構いなしの主人公。

 

この恭子という親友も曲者で、ただひたすらヒステリック。感情的すぎてもう手がつけられない。

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あとガムの奴。ガム君てなんだよ。

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お前本当になんなんだよ。あんなガムの噛み方、メジャーリーガー以外で俺は見たことない。ただただ鬱陶しい。

 

このような映画が大量に消費されてしまうこの国の現状を憂いでしまう。中高生たちがありがたがって鑑賞し、「感動した」、「これこそ純愛映画」みたいな腐った感性はどこで養われていくのだろうか。そもそも、日本映画で見せられる「純愛」とはなんなのか。「病気」による人の「死」、このキーワードが「純愛」として語られるのは本当に許されないと個人的には思う。「フィクションなんだからごちゃごちゃ言うなよ」という意見もあるだろう。このような意見があったり、Yahoo!映画などのレビューで割と高評価が多いのを見ると、この国の未来が心配でならない。

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しかし、この映画を見て「フィクションとはなんなのか?どうあるべきなのか?」ということについては考えさせられた。そもそもフィクションとは、「作りごと、作り話」(ジーニアス英和辞典)という意味であるが、映画における「フィクション」のあり方というものにはいくつかのパターンが存在する。SFなどの多くは、現代の科学技術では実現することが難しいが、スクリーンの中で起きている事象について、視聴者にも「疑似体験させる」ということが重要な要素となってくるはずである。ここで重要なのが「疑似体験させる」というハードルの高さではないかと思う。全く私たちの想像がつかない、未知なる世界について「疑似体験させる」ことは、意外と容易いのかもしれない(映画製作者の皆さんの苦労は相当なものだとわかりつつ…)。しかし、この類の恋愛「フィクション」的な立ち位置を取る、特に日本で中高生がありがたがって信仰し、消費する映画はその「疑似体験させる」というハードルが非常に高くなってしまうのではなかろうか。だから、フィクションだとはわかりつつ、「こんなこと起きねーよ」、「この展開はさすがにないわ」ということが起きてしまう。つまり、私たちはこの登場人物たちと同じような時間(中高生という時間)を過ごしてきたぶん、そこで起きそうなこと、起きなそうなことの判断ができてしまうのだ(私がろくな中高生時代を送ってきていないからかもしれないが…)。ここがフィクションが私たちをその世界に結びつけるか、結びつけないかの違いなのではなかろうか。この「ありそうでありえない」という塩梅の難しさがフィクションの持つ面白いところであり、難しいところなのだろう。それを踏まえた上で、この映画は「ありえない」の一択でしかないのだもっと登場人物たちに人間味が必要なのではないか。まあそれ以前の問題だけど。

繰り返すが、「フィクション」とは「この世界でまったくもってありえない世界観」のことを言うのではない。「ありそうでありえない」「ありえないけどありそう」この不確実、不均衡な部分があるからこそ、面白みがあるのだ。

 

長々と講釈をたれてしまった。しかし、男の腐った精子みたいな映画を女子中高生たちが有り難がっているのを見ると、この国には本当に未来なんてないと思わざるをえない。男の妄想に騙され、有り難がるな。だから世の男たちは女をなめた目で見るんだよ。

ただ、もしこの映画が、現在の日本に潜むディストピア的現状を見せようとしてくれているなら評価に値するのかもしれない…。

神話的叙事詩が熱狂させる私たちの心と普遍的ロマン~『バーフバリ 王の凱旋』~

正直、まったく目を付けていなかった…。

妻が突如『バーフバリ 伝説誕生』を観たいと言い出し、流れで鑑賞。

そして『バーフバリ 王の凱旋』を土曜日に鑑賞してきたが。。。

これはとてつもない。。。

なんだこれは…。

これはちゃんと書いておかなければならない、ということで筆をとった。

 

「バーフバリ 王の凱旋」予告編

 

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ギリギリ大画面で観れて大満足。。

 

土曜日22:40の回を見たが、気付けば次の日の15:20にも劇場に来ていた…。

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神話的叙事詩がなぜここまで熱狂させるのか

 

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『バーフバリ』1と2のあらすじはもういろんなところでたくさん書かれているので割愛させてもらう。この物語がなぜここまで人を熱狂させているのかということについて考えていきたい。

本当に一言で表すと、「単純明快かつ誰もが知っている物語」であるのが大きな要因だろう。話の構造としては、「王位を奪った悪の王に息子が今立ち上がる!」というだけのもの。とてつもなくわかりやすい。

そして、「誰もが知っている物語」という部分においては、私も含め、日本に居住している人の多くはヒンドゥー教や「マハーバーラタ」に明るくはないだろう。しかし、この物語はどこかで必ず聞いたことがある。一番大きなところでいうと「出エジプト記(Exodus)」を彷彿とさせる。

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(マルク・シャガール)

 

 

エジプトではイスラエルの子孫が増え、奴隷にされる。イスラエルの民の増加を恐れたエジプトのパロ(王のこと)は、「男の赤ちゃんは殺せ」と命令。そんな中、エジプト王の娘がナイル川に水浴びし、かごに入った赤ちゃんを見つけ、「モーセ」と名づけ、引き取って育てる。

 モーセは成長し、ある日、同胞イスラエル人がエジプト人に打たれているのを見て、エジプト人を殺して助ける。殺人がバレて、ミデヤンの地に逃亡し、現地の娘チッポラと結婚。

 ある日、羊を飼っているとホレブ山で燃える柴の中から神の声がかかる。「エジプトに行き、民を救い、先祖たちに約束した地に導き出せ」と告げられる。

 モーセは兄アロンと再会し、共にエジプト王(称号パロ)に神の奇跡を現して、「民を行かせるよう」、たびたび交渉するが、パロは聞き入れない。最後に長子が死ぬという災いがエジプトに起き、とうとうパロは、イスラエルの民がエジプトを去る許可を与えた。イスラエルはエジプトを急いで出る。これが「過越祭」となる。(http://ekuresia.web.fc2.com/ten/seisyo/youyaku/r3.html より引用)

 

小さい頃に親に『プリンス・オブ・エジプト』を見せられた記憶もあるが、あれも川に流された赤子が、己の出自を知り、母国へ喧嘩を売るという内容が強く頭にこびりついている。私も神話に詳しい人間ではないので、深く入り込んだ話はできないが、このような話はこの世界中、どこの文化においても普遍的に存在しているものなのだと思われる。

ましてや兄弟のいざこざ、嫁姑問題なんて腐るほど見受けられる。マハーバーラタの歴史、旧約聖書の歴史なども考えると、このようなありふれた物語がいかに民衆を熱狂させ、扇動してきたかということなのだ。つまるところ、これは世界中の人間が大好きで、否応にも熱中してしまうはずなのである。

 

私たちは結末を知っている

 

この映画を批判する人の中には、「結末がわかっているので何のひねりもない」という人もいるそうだが、ここがまた神話としてこの映画を読み解くうえで重要な部分になっているのではないかと思う。

この物語は話のスタートから終わり方まで、もう映画が始まった時点で誰もが理解可能であり、知っている(バーフバリが勝つことは全員が知っている)。また、この物語の中に織り込まれている話も私たちは知っている(1のラストでカッタッパが裏切ることを知っている中、その経緯を2で追っていく)。みんなが既知の物語であるからこそ、歌舞伎的に鑑賞することができるのではないだろうか。デーヴァセーナがピンチに陥ったときに弓3本を放つ(ここへの伏線の張り方も素晴らしい)バーフバリが現れたときには「いよっ!待ってました!」と手を叩きたくなる感覚にもなる。

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バーフバリの無双っぷりも神話として主人公の最強さをまさしく目の当りにし続ける点でとても爽快である。なので、この物語を見ていると、「この展開知ってる!」、「きたきたコレコレ!!」という全員が待っている展開を恥ずかし気もなくどストレートにぶち込んでくれる点が見ていて痛快なのだ。

エンターテイメントとは何かをこの物語から考えたとき、神話的叙事詩をみんなが知っている太古から受け継がれる物語として真正面からぶつけてこられることは、見ている人間としては胸が熱くなるんだなあと。なぜ神話が語られ続けてきたのかという答えはここにある気がするのだ。はるか昔、太古から、人は神話に熱狂し、文化の一部としてその肉体に宿してきたのだろう。

 

だからと言って盛り上がるという単純なものでもない

 

しかし、批判にもある通り、みんなが知っている物語だけをただ行うのなら、日本で『桃太郎 伝説誕生』(これもまた川を起点とした王政破壊物語だな)を作って上映すれば流行るのかというと、そうもいかないだろう。この映画はその上で壮大なセットと、何よりいちいちかっこいいカメラワークが場面場面を盛り上げている。特にカメラワークについては、『バーフバリ 王の凱旋』の方は1作目に比べて格段に良くなっているように感じる。まず、2の冒頭、シヴァガミが悪魔祓いの儀式をしているシーンから始まるが、突如ゾウが暴れ出す。その暴れた像がシヴァガミに向かって突撃していく…!ここで観客は「バーフ!バーフはどこ!!??」となるところで、木で鍵をされている巨大倉庫の扉が「ドン!ドン!」と鳴り、巨大建造物といっしょにバーフバリが登場!!!!ここでも「待ってました!!!」と言わんばかりの登場。ここのカットが異常にかっこいい(どのようにバーフバリが鍵かかってる倉庫にいたのかは謎だが、細かいことはこの映画ではどうでもいい)。そしてゾウをなだめる中での下から見上げるような巨大建造物(ガネーシャ)のドアップ。これがまたかっこよすぎる!!!

また、スローモーションの使い方もとてもよく、デーヴァセーナが登場してからの戦闘シーンでのスローモーションで相手をなぎ倒す様子は、衣装の色鮮やかさも相まってとても素晴らしい。この世界が幻想的でありつつ、暴力も存在しているという2面性をとてもよく表現している。

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他にも、マヘンドラ・バーフバリ vs バラーラデーヴァでの槍と槍をぶつけ合う直前のあのスローモーションもたまらなく素晴らしい構図である。もう興奮が止まらん。

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母を縛り付けていた鎖でバラーラデーヴァとタイマン張るところも最高。傷に粉塗るところはもはや力士のそれ。

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更に、『バーフバリ 王の凱旋』の名シーンと言えば、痴漢撃退のシーンだろう。この物語に出てくる女性は全員が強い。ウィークエンドシャッフルで宇多丸も指摘していたが、インドの文化がずっと持ってきた女性観が国際基準に合わせてきているというのは納得である。それを感じるのと同時に強気女性たちの姿には『マッドマックス 怒りのデスロード』の女性たちを見ることができる。これは、女性たちの解放の物語(文字通りデーヴァセーナも解放するし)であると同時に、男性の生き方も問いかけてきているだろう。バーフバリがデーヴァセーナの橋となり、その上をデーヴァセーナが渡るところ、ラストシーンでのバラーラデーヴァの黄金像の顔面を歩いて渡るところとの対比とか最高じゃないか!

強い女性が出てくる映画さいこう!

 

『伝説誕生』ラストのライオンクローも大好き。

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神話的叙事詩が描き出す物語は、私たちの太古の記憶を呼び覚まし、血沸き肉踊らせる。その物語の結末を知っていようとも、そこにある普遍的なものに私たちはロマンを感じ、熱狂するのだろう。

 

あとサントラも欲しいのだが、、、

テルグ語版出せや!iTunes!!!!

 

あと、女性専用車両は差別だって騒いでる人間は、バーフバリ見習って大きな器を持て。

 

しかし何をもってしても、

マヒシュマティ王国に栄光あれ!

(ジェイ!マヒシュマティ!!!)

生活がHIPHOP(うぇるかむとぅかなざわ)~田我流@金沢~

先日、金沢MANIERというクラブに田我流がやってくるということで、遊びに行ってきた。

 

この日は朝から仕事で、たまたま定食屋でお昼を食べてる時、NHKの『ドキュメント72時間津軽海峡年越しフェリー」』がテレビで流れていた。

NHKドキュメンタリー

 

いろんな人間がいるなあ、なんかいいなあ、と思いながら刺身定食を食っていたら、最後の方になんか見たことある顔が…。

「デミさん…?」

また映るタイミングを逃さないようにテレビを凝視。

NIPPSじゃん!!!!!!!

函館移住!!!???やべー!!!

となった。

そんな1日の始まり。

(再放送だったのね。しかも結構話題になってたらしい。。)

 

話を戻す。

田我流はファーストアルバムのころからずっと追い続けており、

B級映画のように2』は本当に傑作で、死ぬほど聴きこんだ。

B級映画のように2

B級映画のように2

 

最近では、BAD HOPのような川崎サウスサイドのゲットー出身のラッパーたちが人気になっている中、山梨一宮町というド田舎の鬱屈した思いからここまでのし上がるという部分にもとても感銘を受けた。

 

3.11以降は積極的な活動を見せ、選挙への呼びかけなども行っている姿はとても印象的であった。
【選挙フェス】@渋谷ハチ公 13 07 20 cro-magnon feat 田我流 選挙に行こう! ゆれる

 

また、その活動も多岐にわたっており、ここまで全国区のアーティストになっても山梨をレペゼンし続け、山梨のお店などを紹介しているのも素晴らしい。


田我流の「うぇるかむ とぅ やまなし」vol.7【喫茶あさげ・うどん いち】

 

そんな田我流を初めて生で見れるということで、行ってきたわけだ。

感想は、、、とてつもない。

ここまでパワーがあるのかと思わされた。ステージではなくフロアでブチかまし、常に観客を沸かせ続けていた。

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 (EVISBEATSとの新曲もやってたけど、はてなブログは動画アップできないんか???)

 

ライブ終了後、少し話をした。

3.11以降の活動の話をすると、

「社会活動をし続けていると、自分が一番やりたい音楽が遠ざかってしまう。音楽ができないと意味がない。」と言っていた。

これは本当にそうだと思う。

しかし一方で、先月逝去したECDはそれを体現していた人間なんだと思わされた。

つまり田我流やECDを含め、「生活がHIPHOPである」ということが何よりも大事で何よりも当たり前だったのだろう。

自分の生活とは何なのかを見据えながら自分に今できることをやるということの難しさを知らされた。

 

今回はDJ CARRECによる30分ECDのみの楽曲をかけるというDJも行われた。

田我流のライブの最後にはみんなで『ロンリーガール』の大合唱が行われた。

ECD亡き今、全員でECDへの思いを天まで飛ばすことができたはずだ。

僕はECDとは考え方も違うし、賛同できないなと思ったこともあるけど、やはりECDが残した功績は僕の中でもとても大きいものだった。

東京ブロンクス繋ぐ直通弾丸列車
途中下車無効
特等席同席するこいつらメッキじゃない
このBuddhaとShakkaは
南無 大神拝みなされ 喝!

(大怪我)

ECD IN THE PLACE TO BE.



 

今回会場で墓場堀士のMIX CDを買ったがこれもまたいやらしくて素晴らしい。。。

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朝からECDとの繋がりを感じる一日だった。

「問いかけ」への「答え」なのか?『ブレードランナー2049』

ブレードランナー2049』を見てきた。


映画『ブレードランナー 2049』予告

 

監督は『メッセージ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ


映画「メッセージ」予告編

『メッセージ』は個人的には結構楽しく鑑賞することができた。

静かな雰囲気の中に哲学的な内容を入れてくるというふんわりした感じ。

今回同監督が『ブレードランナー』の新作を監督するということで、聞いたときは『メッセージ』の雰囲気の監督が『ブレードランナー』を作るのか…?

期待と不安が入り混じりながら鑑賞。

不安通りでした。

 

世界観や設定はとてもよかった。『ブレードランナー』の世界をよく理解した監督が作ったんだなあと。

しかし、このもやもやは何なのだろうか。

 

今月の『映画秘宝』で柳下毅一郎氏が、

ブレードランナー』は答えではなく問いかけだった。*1

と書いていた。

  (今月号の表紙は熱い!!)

俺たちはみんな『ブレードランナー』に胸を熱くされ、その提示された問いに苦悩し、考え抜いてきたではないか!!!

 

しかし、今回の『ブレードランナー2049』は何を問いかけていたのだろうか。

というのが最大の疑問。

 

ブレードランナー』は人間とレプリカントの境界、その危うさ、宗教性、己の問い直しであった。

また、その宗教的要素は本当に感心した(宗教を持ち込むなという人間もいるだろうが)。

canalize.jp

(このブログは、『ブレードランナー』のキリスト教的視点についてすごく詳しく書かれててとてもよかった。)

 

ブレードランナー2049』の設定はレプリカントが差別を受けながらも人間と同じ仕事をする時代が到来していた。主人公がレプリカントであると明言されているのは観客にも新たな視点を持たせるという点で面白かった。人間のレプリカが己とは何かを考え、自分は特別な存在なのではないかと自問し、希望を見出していこうとするのはよかった。

しかし、イエス・キリスト(救い主)の誕生をモチーフにはしているのだろうが、なんだかそれもしっくりこない。レプリカント反乱軍(こいつらは何がしたいの?)はレプリカントが受胎し、新たな生命が誕生したことに神性を見出そうとしているのは何なのか。人間とレプリカの垣根を越えるものは「受胎」なのか?そして主人公の気持ちを真っ二つにするように、それは女でした。しかも何の苦労もしていない隔離された夢デザイナーとして活動していました。みたいな展開は何なのか。ガフが折る羊は何なのか。さしずめ、迷える子羊、1匹の羊を連想させるものなのだろうが。

 

なんか優等生すぎるんだよヴィルヌーヴ。うまくまとめようとしすぎ。

 

ここからは個人的なダメ出し。

・ホログラムの都合のいい女感は何なんだ。今で言うと二次元を愛するオタクの夢を現実に叶える画期的なシステムなのだろうが、無条件で自分を愛してくれる女性をそこまで求めてんのか。知り合った女とホログラムを重ねてセックスをするのは正直見てて無になるしかなかった。

・妊娠すりゃあ人間なのか?じゃあ妊娠できない人間は欠陥なのか?

・孤児院行くとき車ぶっ壊されたのにどうやって帰った。徒歩か?

・あの無能警察上司女は何なんだ。自分の部下の状態が正常でないと知っておきながら、部下が「目標は殺した」とか言ってるのを何の証拠も根拠も聞きも確認もしないで納得してしまうのはお前のほうが正常じゃないだろとしか思わなかった。

レプリカントが差別されてる世界が最初にだけしかよくわからず、ウォレス社のラブの身体能力とか強さは何なのアレ。平気でかかと落とし食らわせたり、首元へのチョップで人間殺してたぞ。あんなの怖くて差別とかできねーよ。こいつはレプリカントとしての葛藤はないの?

・何の前触れもなく、デッカードに娘に会わせてやるとか言って、あの夢デザイナーが娘だってなったのかが全くわからなかったんだけど、みんな気付いたの?というかあの施設何?警備とかいなくて一人でいるの?

・ウォレス、てめーの最初の袴は何だよ。

 

何度も言うけど『ブレードランナー』としての雰囲気は申し分なかった。

ただ、『ブレードランナー』には「見えないもの、自分を超越している何か、しかしそれが一体何なのか、救いとは何なのか」そこにある人間とレプリカのあやふやさという大きな問いかけが故意であったのかはわからないが、見ている側には投げかけられていた。

ブレードランナー2049』はその超越したものがすべて人間の手の中に入ってしまったような感じ。だからそこには想像の余地もなかった。だから、最終的には主人公の苦悩はどう昇華されたのかわからないし、感情移入はできなかった。『ブレードランナー』は最終的にはレプリカントに感情移入できたじゃないか。レプリカントとしての儚さみたいなものはどこにいったのか(俺たちのロイ・バッディの思いを返してくれ!!)。

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http://namonaiblog.blog.fc2.com/blog-entry-6.htmlより

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https://source.superherostuff.com/movies/blade-runner-sequel-receives-official-release-date/より

だけれども、よくわかんないけど、なんかとても綺麗な答えが提示されちゃった感じ。

「自分は特別じゃなくても、特別な者の役に立つことができるからこそ特別なのだよ」

みたいな。

 

なんか、学生時代によく俺を捕まえては、「最近何か深いこと考えてる?」とか「幸せって何だと思う?俺はもう答え見つけたけどね。」とかほざいてた年上の糞みたいな先輩を思い出す映画だった。

 

優等生が深いぶってるだけでハリボテの映画。

 

俺が見たいのはSFじゃなくて、哲学SFなんだよ!

人間vsレプリカントに焦点を当てないでくれ。

 

「あぁ、こんなのあったなぁ」で済む映画になればいいけど、あの袴男生きてるし何も解決してないから、続編作る気満々だよなあこれ。。。

*1:映画秘宝』2017年12月号

カナザワ映画祭2017レポート~『歯まん』~

カナザワ映画祭2017が始まった!

「期待の新人監督」には、89作品の応募があり、22作品がノミネートとなった。

3日間かけてこの22作品の上映が金沢21世紀美術館シアター21にて行われた。

もうカナザワ映画祭主宰、小野寺氏のブログやツイッターでも報告があった通り、「期待の新人監督賞」には『ハングマンズノット』が選ばれた(私は見逃してしまい、本当に悔やんでいる)。

eiganokai.blog.fc2.com

 

私が鑑賞したのは、短編含め10作品ほどであったが、いくつか印象に残ったものを簡単に書いておきたい。

 

『歯まん』

読み方は、「はまん」。鑑賞直前まで「しまん」と読んでいたのが恥ずかしい(前売り券を買うときにも「『しまん』を一枚ください」と言ってしまった)。

www.youtube.com

 

トーリーは女性器に歯が生えている(本人も知らなかった)女子高生が初めてのセックスで彼氏の男性器をかみちぎってしまい、血しぶきぷしゃー!というもの。

冒頭からいきなり上記の描写で、狂気じみた世界が展開される。しかし、その後、物語は女子高生の内面的な部分から純愛(あまりこの言葉は好きではないが)へと変貌していく。愛とセックスどちらを選べばいいのか、という問題に対して究極的な問いを見ている側に投げかけてくる。

途中で八百屋のオッサンに強姦されるシーンでは、オッサンに対して「こいつは絶対ゆるさねぇ」って思いながら主人公に「やっちまえ!!!」と叫びそうになったり。

そして、人を好きになっても自分はセックスできないというコンプレックスを抱えながらも人を好きになってしまう主人公の痛みを感じた。

 

物語の終盤、これはどのように終わるのだろうか?

「愛」はセックスを超えた偉大なものである、というありきたりなもので終わってしまうのでは?思っていたら、主人公の彼氏が「セックスがしたい」と主人公に伝えるシーンに私は心の中で歓声をあげていた。よく言った!!

 

セックスというものにいろいろな形がある中で、「『愛』と『セックス』は同居し得る」ということを今一度大きく打ち出したのがこの映画の最大の見どころだったのではないかと思う。

「いつ死ぬかわからないから、愛している人とセックスをして死ぬなら本望」

これこそが最大の「愛」なのではないかと強く思わされた。

最後口と歯のアップで終わるのもよかった。

 

 

女性器に歯が生えているというのは、物語としてはあまり不思議ではない。

昔からこのようなことは神話などで語られてきた。

ヴァギナ・デンタタ - Wikipedia

 

今回のカナザワ映画祭「期待の新人監督」は、『家畜人ヤプー』をはじめ、『もりのくまさん』、『自由を手にするその日まで』だったりと、人間の内面に刷り込まれてしまったもの(だからといって許されてはならないもの)を覆す、現代の価値観そのものの否定を真正面から行っている作品が多かった。

 

『歯まん』は画としての豪快さや派手さはあまりなかったが、その分、私たちの内面に迫ってくるようで、見終わって数日後にじわじわとくる映画だった。

 

さいこう!