BONNOU THEATER

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『必然と創造』〜濱口竜介監督『偶然と想像』〜

最近いろいろあってやっと映画を見直す時間を作るように務めはじめた。


濱口竜介監督の『偶然と想像』を見たので少し感想を書いておこうと思う。
(新作映画をこのブログで取り扱うのは初めて?)

 

 

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©NEOPA fictive

guzen-sozo.incline.life実はこれまで濱口監督の作品は見たことがなく、『ドライブ・マイ・カー』がカンヌ国際映画祭脚本賞を受賞したことも、『スパイの妻』(これも未見だが)で黒沢清と共同で脚本を作ったということも全然知らなかった。

まあ特に大きな理由もなく短編集だし軽い気持ちで「ちょっと見ておくか~」くらいの気持ちで鑑賞した。


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本作は

第一話『魔法(よりもっと不確か)』

第二話『扉は開けたままで』

第三話『もう一度』

という三部構成になっている。個人的には第三話が特に面白かったのでそこを中心に書いておこうと思う。

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©NEOPA fictive

高校の同窓会に参加するため仙台へやってきた夏子(占部房子)は、仙台駅のエスカレーターであや(河井青葉)とすれ違う。お互いを見返し、あわてて駆け寄る夏子とあや。20 年ぶりの再会に興奮を隠しきれず話し込むふたりの関係性に、やがて想像し得なかった変化が訪れる。

 

もう少し補足しておく…。
高校時代に付き合っていた人物(ゆうき みか)にもう一度会いたいと願う東京在住の夏子は、地元仙台で行われた同窓会に参加する。そこにみかは現れない。次の日東京に戻ろうと仙台駅に向かうエレベーターでみかとすれ違う。偶然の再会に興奮する二人。夏子はみかの自宅へ招かれる。どことなくふわっとしたたわいもない会話をしながら家にたどり着き、お互い近況を報告し合う。社交辞令的な話が続く中、夏子はみかに対して「あなたは何も本質的なことを話してくれない」と伝える。そのとき、みかだと思っていた人物が全くの他人(こばやし あや)であることが発覚する。あや自身も夏子を高校時代の友人と間違えていた。そこから、夏子にとってみかという人物は高校時代の恋人であり、卒業してから会うことなく別れることになってしまったことがわかる。「大事なことを伝えれていない」という夏子の思いに答えるように、あやは「私がみか役をやろうか?」と名乗りでて、奇妙なロールプレイが始まる…。

 

まずこの三部作、どれを取っても言いようのない不気味さを感じる。第一部では友人の恋人候補が自分の元カレで、元カレの職場まで押しかけるという内容だったり、第二部では、自分の欲望を満たすために慕っている大学教授にハニートラップを仕掛けようとしたり、不穏な内容である。第三部も同じように不穏さを感じるのだが、特にみかだと思って話していた女性が実は全然知らない他人だったということがわかる瞬間は第一部、二部とも違ったゾッとする感覚があった。それは黒沢清が描き出す不気味さに通じたものに感じた。さすが師匠というか、師匠からの影響を非常に感じるというか。『クリーピー偽りの隣人』での超有名なセリフ「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です」が自然と頭の中をよぎった。


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また、三作すべてにおいて長回しのショットが多用されている。それは、物語の緊迫感を描き出すとともに、映像を使った小説的表現でもあるように感じる。私たちはただ長い時間登場人物たちが会話をする様子を目撃する(黒沢清が褒めていたのが最初のタクシーでの長回しショットで、タクシーの座席のつくりが昔と変わったことへの言及でなんか面白かった)。それは、顔も知らない人の話、本の朗読、自分たちが破局した理由など、会話の中でしか描かれない出来事に対してタイトルにある通り私たちは「想像」することで意図的に作られた穴を埋めていくという作業になっていく。映像を見ているのだが、感覚としては小説を読んでいるときのものに近い鑑賞体験である。特に第三部は夏子とあやという人物に加え、登場することのないみかという存在の 3 人を巡る物語になっており、「想像」という営みを私たちが主体的に行う必要がある。

 

話を第三部に戻そう。第三部の冒頭、世界は Xeron(セロン)というコンピュータウイルスが蔓延した後の世界だという導入が入る。SF チックな入りであるが、コロナウイルスの蔓延をベースにしていることは明白で、もはや SF 的な表現ではなくなってしまった。このウイルスについて作中では以下のように述べられている。

Xeron(セロン)
インターネット・プロトコル脆弱性を利用して感染するコンピュータウイルス。
一度コンピュータ内に侵入するとユーザーのディスク内のファイルを、それまでやり取りのあった連絡先へと無作為に送付し続け、ウイルスもまた感染を広げていく。
2019 年末に初めて発見されて以来、このウイルスへの感染によって国家から各家庭に至るまであらゆる「機密情報」が流出した。
このことでプロバイダ事業者、大企業、学術研究機関、そして国家機関に至るまでがお互いのネットワーク接続を解除し、インターネットに依存していた社会システムは完全停止した。
半年が過ぎて、郵便と電信を通信手段とする数十年前の状態へと逆戻りすることで、世界は社会システムを再構築したが、いまだ安全なネットワークの仕組みは普及しておらず、ネットワークはシャットダウンされたままだ。
この状態が一時的なものであるのか、恒久的なものであるのか、それはまだ誰も知らない…(第三話『もう一度』冒頭より)

物語の中では Xeron というウイルスによる生活への影響は画面からあまり感じ取ることはできない。しかし、インターネットによって「つながっている」と思っていたものが喪失し、「アナログ」といわれるものへ戻ってしまった。人(みか)と実際に会う、同じ空間・時間を共有することでつながりを再確認する作業が夏子自身ウイルス以前から求めていたものであり、ウイルスの時代が彼女のその思いを後押ししたようにも見える。
Xeron による影響を表す場面として、あやの夫がかつて付き合っていた相手と会おうとしていた内容のメールがあやの携帯に流出してきた出来事を語るシーンがある。みかではなかったことを知り落胆する夏子に対して、初めて自身の経験を語る場面で非常に印象的である。夫が相手に送ったメールの文面がとてもよかったとあやは語る。

「君が言ってくれたことが今でも僕の背中を押している。君の存在が今でも僕を深いところから支えている。君に会えたことは僕の人生で起きた一番いいことの一つだ。」

あやの夫、かつての恋人、「君が言ってくれたこと」、すべて私たちは想像するしかない。それでも数十年後に自分を見つめなおしたとき、あのときの誰かが自分の中でどのような存在として残り続けているのか、それが言葉として形になったとき、この文面が纏っている美しさが私たちの想像の中でも特別なものとして残る。

あやはみか役をやると提案し夏子の前に立つ。みかに対して夏子は別れのとき言えなかったことを言葉にしていく。

「私はあなただけを愛している。」

「私と生きていくことはあなたの人生を難しくするかもしれないけれど、それでも私を選んでほしい。」

「ただそのことを言えない私がいたって伝えたかった。」

「何をしても埋まらない穴があって、その穴を通じて私たちも繋がっている。」

これもまた、あのときのあなたが今の私を形作っているという時を超えたメッセージだ。それは、つながっているけどつながっていないというインターネット社会を超えた、喪失の中で私たちはつながり続けているのだという人間の本来の姿なのかもしれない。

 

『偶然と想像』について濱口竜介監督と黒沢清監督の対談動画があがっていた。この三部作を作るにあたって、濱口監督は「ご都合主義と言われないためにはどうすればいいか悩んだ結果、タイトルに『偶然』という言葉を入れた。」という旨のことを語っていた。そうすることで視聴者は物語の中で起こる偶然を自然と受け入れてくれるだろうということだった。

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しかし本作を見ながら私の中で巡っていた言葉は冒頭のスピノザの言葉だ。

自然の中には何一つ偶然的なものは存在しない、いっさいは神の本性の必然性から一定の仕方で存在や作用へと決定されている。(スピノザ『エチカ』第一部、定理29)

スピノザは偶然を否定する。神によってつくられた自然自体が完璧な存在であって、そこに偶然などないのだと語る。この映画もそうだ。世界に果たして偶然などありえるのかということを考えさせられる。夏子が同窓会に行かなければ、カツ丼屋に寄らなかったら、あの時間に仙台駅にいなかったら、この出会いは存在しなかった。すべてが用意されていたのかのように。

 

物語の冒頭、駅で出会ったばかりの2人は以下のやりとりをする。

夏子「会えた。」

あや「よかった。」

物語の終盤、2人は再び仙台駅へと戻る。駅へと向かいながら今度はあやが勘違いした同級生演じると夏子が言い出す。あやは名前も思い出せない同級生だからやめようと言うが、夏子はそれでもやりたいと言う。あやは自分の中にずっとひっかかっている苦しみを吐露する。

「何にでもなれたはずなのに気が付けば時間だけが経ってしまった。心燃え立つものがもうないの。どうすればいいかわからないの。時間にゆっくり殺されていく。」

家族がいて、立派な一戸建てに住み、夫はそれなりの収入があり、社会的には「幸せ」の部類に位置するであろうあやは、ただ流れ去っていく無味乾燥な日々に対する自身の辛さを苦しそうに語る。そんなあやに夏子は声をかける。

「あなただけが私に踏み込んでくれた」

「あなたの存在が私に力をくれていた」

あやと同級生の関係がどのようなものであったのか、物語からはぼんやりとしかわからない。この場面であやに声をかけたのは夏子自身だ。過去の人間からの言葉が続く中、ここでは今を生きる夏子の言葉が語られる。それは「何をしても埋まらない穴があって、その穴を通じて私たちも繋がっている。」と語った自身への返答でもあるだろう。「埋まらない穴へ踏み込んでくれたあなた(あや)の存在が私の力となった」。

 

別れ際、2人はもう一度お互い口にする。

夏子「会えてよかった」

あや「会えてよかった」

会えたという事実に対する「よかった」という冒頭から、会えたことで新たな生・価値を自ら創り出すことができたことへの「よかった」へ意味が変わっている。

 

『偶然と想像』これは視聴する私たちに付けられたタイトルなのかもしれない。

物語の意味を考える時それは『必然と創造』として私たちに迫ってくる。

 

「ご都合主義」に思われるのかもしれないが、人生は自分たちが思っていなかったことが偶然のように起こる。実は偶然なんてものは存在しておらずすべて必然的な出来事として私たちに運命づけられいて、その歯車の中で私たちは喜び悩み苦しみ、その中の出会いから新たな生を再び創造していくのだろう。

 

偶然のような必然の中で想像を超越した創造が行われていく。

 

最後に、「Xeron」という英語は存在しないらしい。調べるとXenon(キセノン)という希ガスの元素がヒットするのだが、印欧語根(これについてはまったく詳しくないのでわからないが)的には「見知らぬ人」「他人」などの意味があるらしい*1。Xenophobiaは「外国人嫌悪」と訳されることもあるが、接頭語のXeno-が「異物」という意味を含んでいるため、監督はそのあたりの意味を含めてもじったのかなとも思ったりする。更に「Zero」を混ぜ合わせたのではないかとも思う。ウイルスによってすべてがリセットされた状態という意味でゼロという言葉を入れたのではないか。邪推かもしれないがこのあたりは詳しく知りたい。

 

オンラインでも上映がされているので、この機会に是非いろいろな方にこの偶然を体験してほしい。

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