〜生と死が交ざり合うところ『この音が聴こえているか』〜
先日、とある個人の方がやっている上映会にお邪魔してきた。
そこで、はじめて『この音が聴こえているか』という映画を鑑賞した。
制作:チーズfilm
監督:戸田彬弘
音楽:和紗
出演:森元芽依、田谷野亮、菊池豪、山林真紀、秋山玲那、川住龍司、上原靖子、小島響子、桜乃まゆこ、田中愛生、松崎映子、大谷幸弘
あらすじ(ホームページ:チーズfilmより)
ファミレスで待ち続ける男・水原。目の前には 変わらずハンバーガーセットが食べ残されている。死者に会えるという噂を頼りに会う方法を探し続ける男・生瀬。生瀬の耳には恋⼈の愛が弾いていた「この道」が聴こえ続けている。どこにも⾏く事のできない⼥・波江は⽔原と会うことを願い続けている。やがて交わる事のできない死者と生者は、互いに想像する事で誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを祈り始める。
(http://tuki1.jp/archive/15apr/15apr02/より)
30分ほどの短編映画なのだが、これがまあなんというか、完全に心を持っていかれてしまった。
ストーリーがどうのこうのとか、演出とかではなく、言語化が非常に難しい。感情に訴えかけてくるような、とても感覚的な映画だった。簡単に感想を残しておきたい。この映画は生きている者と死んでいる者の話しである。制作が2014年となっており、度々海辺のシーンが流れることから、おそらく3.11をかなり意識しているのではないかと思われる。
予告動画を見ていると、同じセリフが繰り返される。
「言葉は新しく生み出せないから、私はこうすることしかできない。踊ったり、笑ったり、いつか誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを願っている。」
水原という男は、ハンバーガーセットを傍らに、レストランのボックスに一人佇んでいる。彼は、失ってしまったのであろう波江のことを思い返し、会いたいと願っている。波江も同じく失った水原のことを思っている。この映画で非常に印象的なのは、セリフの繰り返しである。上記の予告動画に流れるセリフもそうであるが、劇中で水原と波江がデートをしたあと、明日も会う約束をするシーンのセリフは何度も繰り返される。そして、その一つのセリフをさまざまな表情で表すのである。明るく、「また明日」という希望を見出しつつ心が痛む「痛い」というセリフ、悲しみの中で思い出すように、叫びのような形となって語られる同じセリフ。そして、「痛い」というセリフが「遺体」という言葉に変わる。登場人物が死んでしまっているのだということを知る。
冒頭にも書いたが、個人的な見解でもあるし、おそらくそうなのだろうと思うのだが、3.11をかなり意識しているように感じる。波打ち際でのやりとり、突然愛するものが奪われてしまったという喪失感、やり場のなさ、失った現実を受け入れられず死者と会う方法を探し続ける者。。。あの日のことを思い出さずにはいられないのだ。あの災害によって愛する人、家族を失ってしまった人は同じような気持ちだったのかもしれない。むしろ今もそうなのかもしれない。そのようなことに思いを巡らせていると、予告にも使われているセリフがだんだんと現実味を帯びて迫ってくるのだ。
「言葉は新しく生み出せないから、私はこうすることしかできない。踊ったり、笑ったり、いつか誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを願っている。」
この世界から自分が失われてしまったとき、残された者に言葉で語りかけることはできないのかもしれない。だから、踊ったり、笑ったりすることで、誰かの記憶に残り、永遠に生き続けることができるのだ。と語っているのではないだろうか。その事実に生きている者も死んでいる者も向き合うことによって、私たちはもう一度、出会えるのだ、一つになれるのだと語りかけているように私は感じた。
(『この世界の片隅に』下巻より)
『この世界の片隅に』でも同じことをすずさんが言っていたような気がします。
「生きている」ということ「死んでいる」ということはあまり変わりはないのかもしれない。しかし、その2つの壁は非常に大きい。だが、そうであったとしても、私たちは人の記憶に残ることができる。記憶の中で私たちは、私たち自身を新しく生み出していくことができるのだ。記憶になった者、記憶をする者、この関係は死していようが生きていようが変わることはない。どこかでその二つが交わるときがこの世界にはあるはずだということを示してくれたとても素敵な作品であった。
こんなに素晴らしい映画が埋もれてしまっているのは本当にもったいないなあと思う。
ソフト化を激しく希望しております。
jzzzn(@bonkurabrain)
ツイッターも更新中!
~転ぶ我々と踏まれるイエス、沈黙するキチジロー『沈黙 -サイレンス-』~
『沈黙』を観てきた。
予想以上に素晴らしいできだったので、少しレビューを書こうかと。
▶映画『沈黙』
非常に有名な作家、遠藤周作の『沈黙』が原作のこの映画。
キリシタン弾圧の中でのポルトガル宣教師が抱く信仰への葛藤を描いた、まさしく名著である。特に今更この作品についてあらすじだったり、内容を私の口から語る必要もないだろうと思う。知りたい奴はウィキペディアを見ろ。てか原作を読め。
ただ、特記しておきたいのは、この作品が「半強制的に洗礼を受け、カトリック教徒になり、後に棄教宣言をしている人間」によって描かれたものということである。
キリスト教に挫折した人間の描き出すキリスト教、またはイエス像ということだ。
映画は、とにかく日本人役者勢が素晴らしい仕事をしていた。塚本信也演じるモキチが海で殉教するシーンは映画だからこそできる情景の視覚化ができていて、その迫力に胸が押し潰されるような気持ちになった。
↑ざっぱーん!
また、浅野忠信の役作りもかなり凝っていて、原作にあったようないい人なんじゃないか?だけれども信じれないというキャラクターを見事演じ切っていた。他にも、村人が焼かれてしまうシーンで「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と村人が叫んでいたり、なかなか細かいところまでこだわっているように感じた。
そしてキチジロー。窪塚洋介が出演することは知っていたが、キャスティングなどはまったく頭に入れずに劇場へ行ったので、キチジローとして出てきたときには驚いた。これはちょっとイケメンすぎだろう、と。。もっとキチジローは背がちっこくて汚くて、ねずみ男的なイメージがあったので。。しかしまあ見ていると馴染んでくるような感じがしました。特にあの目力。純粋無垢な目を見ていると、あーキチジロー役に選ばれたのも納得、という感じでした。
この映画では、宣教師たちの目の前で切支丹たちがどんどんつかまり、拷問にあっていくというシーンが3時間弱繰り広げられるわけであるが、その間、どれだけ宣教師たちが祈っても神が介在することはない。絶望なまでの「沈黙」が主題となっている。
映画ではあまり明確に描き出されるということはなかったが、原作の最大のクライマックスは、殉教していく信者たちを目にして、最終的に棄教した(転んだ)ロドリゴがキチジローを通して、神の声を聞くところだろう。
「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」
原作を読んだときにこれほど衝撃を受けたことはなかった。
▶沈黙する私たち
「沈黙」とはなんなのか。
キリスト教信者は、日々祈り、教会に通い、苦しいときにこそ祈るように言われるだろう。しかし、苦しいときに祈っても神は何も返答しないではないか、という疑問に思って当然のことを投げかけているのである。この問いはおそらく教会で声を大にして言うとかなりの反発を受けてしまうだろう。。。また、この映画でも踏絵を強要されるであろう村人に「踏んでもいい」と言うロドリゴと、「踏んではならない」というガルペの言い争うシーンもある。「沈黙する神」と「踏まれるイエス(またはマリア)」という敬虔なクリスチャンならプンプン怒りそうな内容だ。
しかし、このような疑問が必ずしも出てきながら、「なんとなく」、理由もつけず「なんとなく」スルーしている人間がいかに多いのかということだ。「なぜ神の国はやってこないのか」、「なぜ神はこの場に現れないのか」、このような議論ははるか昔から行われてきた。
神学の起源: 社会における機能 (神学への船出 (03)) (シリーズ神学への船出)
- 作者: 深井智朗
- 出版社/メーカー: 新教出版社
- 発売日: 2013/05/31
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
※追記:深井氏は不正論文問題があったため、この本もなかなかお勧めしづらくなってしまった…。
我々は、神と自分を相対的に見ようとしてしまう。神を人格を持った一個人のように扱い、会話が成立するものとしてしまっている。『沈黙』はこのような意識を持ってしまっている我々に異を唱える。「お前たちと共に苦しんでいたのだ」つまり、「語りかけていただろう」と言っている。相対的に神をみようとする我々は、自分が見ているこの空間、現場に何か特別な力(奇跡)が働くことを常に望んでいるが、そうではなく、「お前たちと共に」、苦しんでいる自分自身、つまり神は他者のように存在しているのではなく、苦しむ自分の中、自分という個人の中に存在している、介在しているということなのだ。私たちはそのことに気付くことができない。神の介在を切望し、待ち望む我々は、己と共に介在していた神を知ることはない。つまり語りかけに「沈黙しているのは『我々』なのではないか」ということを感じるのだ。
もう一つ、この作品で欠かすことのできない「転ぶ」。「転ぶ」信者と「踏まれるイエス(マリア)」の重要性である。信仰と教義という信者が貫かなければならない誓いともいうべきルールを捨てるよう強要されるとは、信者にとってどのようなことなのかを想像すると身震いをしてしまう。しかし、遠藤周作は「転ぶ」信者、「イエスを踏む」信者を描くのである。中でも一番印象深いのはキチジローの存在だろう。
▶キチジローとは誰なのか(ヨブ記を手がかりに)
ここから少し怒り混じりなのだが、知り合いの自称クリスチャンが『沈黙』を観たことを某SNSに書き込んでいた。正直その内容に怒りが沸いた。まず、原作を読んだことないのにも驚きだったが、内容がまったく理解できておらず、キチジローに至っては、「キーパーソンだけどダメ人間」と恥ずかしげもなく語る始末。がっかりだ。このような感性でよくものを語れてクリスチャンと自称できるなと。
あの映画を見ていれば、イエスがキチジローを通して最後に語りかけることから、キチジローこそが本物のクリスチャンで、イエスなのだということがわかって当然だろう。最初から最後までロドリゴの側にいて、ロドリゴ自身も「そばにいてくれてありがとう」と語っているではないか。側に居たのはキチジローなんだよ。とここで話は完結してしまう。しかし、もう少し、キチジロー=イエス説というか、そのあたりを考えていきたいと思う。
この映画を観てから、古本屋で買って積読していたユングの『ヨブへの答え』を引っ張り出して読んでいる。
『沈黙』という作品を鑑賞、または読んでいると、どうしても『ヨブ記』が頭の中をよぎる。
ヨブ記の内容はウィキペディアに書かれている通り、ヨブという純粋に神を賛美していた人間が、悪魔にそそのかされた神に試され、全てを奪われてしまうというところからはじまる。これがしばしばクリスチャンの間でも議論になる書物なのだ。純粋無垢な人間が突然神によって全てを奪われ、身体を蝕まれていく。ある日突然全てが奪われるという現実を目の前にして私たちが嘆くのと同じで、これをどう解釈するべきかは本当に話しが尽きない。
ヨブ記の最後はヨブvs神の問答が行なわれる。これもなかなかきつい神からの問いかけである。
わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。(38章4節)
お前は海の湧き出るところまで行き着き深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。(38章16〜18節)
この話は、最終的にヨブが神の計画の成就を妨げることはできないのだと悟ることで悔い改める。そして、神はヨブを以前よりも祝福し、ヨブは長寿を保ち、老いて死んでいく。
このようなある種傲慢な神(神の幼児性と言ってもいいかもしれない)を我々はどう理解するべきなのかという問いに、ユングが『ヨブへの答え』で語るヨブ記の見解が非常に興味深いのだ。
ユングは、ヨブ記の神は自分自身が持つ創造という力に酔っていると語る(ヨブ記40章)。 劣等的な意識を持っており、そこに反省や道徳というものは見られない。この物語を通して、神はヨブに道徳的敗北を喫したと言っている。創造主である神が自らの被造物である人間に敗北してしまった、追い越されてしまったということは何を意味するのかというと、神が人間にならなければいけないということなのである。
ヤーヴェは人間にならなければならない、なぜなら彼は人間に不正をなしたからである。(中略)彼の被造物が彼を追い越したからこそ、彼は生まれ変わらなければならないのである。(p.69)
誰に生まれ変わるのかというと、そう、イエスである。
つまり、神は自分が行った非道徳的な行為に対して、道徳的に上に立った人間に生まれ変わらなければならない。しかし、その人間とは最も罪深いとされる者で、神自身が罪深い者に生まれ変わった。それがイエスということである。また、ユングはイエスには「博愛」という人間的性質があるが、その一方で、怒りっぽさを持っていると語る。つまり、自己反省をしないということだ。しかし、十字架にかけられたとき「わが神、わが神・・・」と叫んでいるところを一つの大きな例外としている。
ここにおいて、すなわち神が死すべき人間を体験し、彼が忠実な僕ヨブに耐え忍ばせたことを経験する瞬間に、彼の人間的な存在は神性を獲得するのである。ここにおいてヨブへの答えが与えられる。(p.73)
生まれ変わることによってはじめて神が「罪深い人間」を体験し、ヨブが耐え忍んできたことを経験することで、イエス自身が神性を得るというこの一連のヨブから続くイエスの物語を通して感じるものこそ、キチジローなのではと思うのである。
この冒頭に書いた自称クリスチャンの「ダメ人間」というのはちゃんとバラして考えると以上のことなのではないだろうか。イエス自身が罪深い人間として神が生まれ変わったものであり、キチジローは物語を通して「罪深い人間」なのである。彼はユダ的に人を裏切るが、それを無意識的に、トラウマと自己保身の狭間で行ってしまう。そして、それを自覚したときに自己反省と告悔を行うのである。転び続けるのである。
しかし、転び続け、裏切り、そのたびに悔い改める人間の中にイエスはいる。それは、ヨブを通して神が生まれ変わったように、人間を罪深い人間を通してイエスは存在しているのだということである。
つまり、キチジローは私たちであると同時に、イエスが存在しているということなのである。
転び続ける我々と、そのたびに踏まれるイエス、しかしそのような私たちと一緒に苦しんできたではないかという神(イエス)の語りかけが意味するものは想像以上に大きなものなのだ。
見ていて思うのは、これは転んだ人間が転んだ人間のために書いたものだなと。
踏まれただけで怒り狂う神でたまるかっつーの!
というわけで、素晴らしい映画でした。
jzzzn(@bonkuraburain)
ツイッターもやっています!
↓ブックマークもよろしくお願いします
〜日常から奪われていくもの『この世界の片隅に』〜
今年は良作が豊富だなあと思いながら、予告だけで涙ぐんでしまった映画『この世界の片隅に』。
11月に公開されているというのに、金沢では12月17日まで公開しない…。
どうなってるんだ金沢!!!(シネモンドさんには感謝!)
東京いったときにでも見るかあと思っていたけれども、どうにも我慢できず、福井コロナシネマワールドまでいって鑑賞。(なんでこんなところでは上映してるんだ…。)
前評判もかなり高く、Yahoo!映画(2016年11月26日22時現在)では4.48点という数字を叩き出していた。
そのため、私もハードルを上げに上げて鑑賞したのだが、これがもう心が洗われて、ほほえましく、涙が流れ、最終的に号泣するという始末に。
この映画を語る人たちで議論になっているのは「反戦映画」なのか「反戦映画ではない」のかということらしい。
私はそもそも「反戦」かどうかという議論をこの映画に持ち込むべきなのかどうかがまず疑問である。
この映画は、すずさんが広島で幼少期を過ごし、一目惚れしたという周作の家に嫁に行き、嫁入り先の呉市で過ごすという至ってシンプルな話である。
この物語の中ですずさんは正義感を振りかざして「戦争はいけない!」とは言わない。
そこがこの映画の魅力だろう。
そんなこと「言えない」し、そもそもそう思ってさえいない。
「何でも使うて、暮らし続けにゃならんのですけぇ。うちらは。」
これは日常なのである。
だから「戦争はおかしい!」なんて言わない。
しかし、少しずつ少しずつ自分たちの日常から大切なものが奪われていく。
「鬼いちゃん」、「スケッチブック」、「姪」、「右手」、「家族」
戦争によって奪われたなんてすずさんは一言も言わない。
日常を追い求める中で私たちは辛いことがあっても日常に戻っていこうとする。
しかし、この映画ではいつの間にか、日常にあったものがどんどん奪われていってしまう。
しかし、「戦争が終わった」ということを知ったときに戦争は過去のものになり、今まで暮らしてきていた日常が「戦時中の日常」だったということに気付かされる。そのときにすずさんは心の中でこれまでうっすらと感じていたものの、決して感情には表さなかった奪われていってしまったものを正面から自覚し、受け止めなければならなくなった。だからこそのあの涙と心の叫び、「ただ何も考えずに楽しく暮らしたかった」という言葉につながるのだろう。
こんなことがあったから戦争はダメですよ!
というのは戦争で何があったのかを勉強し、聞いた現在を生きる私たちが言うのであって、この映画のすずさんはそうは思っていないだろう。
そして、戦争が終わったという重要なシーンではこんな議論もされているとのこと…。
大丈夫なのか…。
映画ではこのあたり、なぜ太極旗が掲げられていて、すずさんが号泣するのかはよくわからなくなっていた。漫画ではすずさんのようなおっとりしたキャラがこのシーンで、はじめて自分の日常の中に抑圧されていた人間がいたことを知るのだが、あまりにも唐突すぎるし、すずさんのキャラに合っていないという意見もある。
しかし、私はこの点においては漫画版の方がよかったなあと思う。
この映画のテーマは「日常」であって、「日常」の中で気付かないうちに大切なものが奪われることがあり、その一方で自分も誰かの大切なものを奪っているのかもしれないということなのだ。
映画では白木リンにもあまり触れられていないのが残念だ。
「誰でも何かが足らんぐらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」
と言ってすずさんを励ますシーンが原作にはある。
「この世界の片隅」に私たち一人ひとりが生きていて、その中で「日常」を過ごしている。
この映画を見て、反戦かどうかを議論してる人たちはこの映画の何を見たの?としか思わない。
あと、兵器描写もとてもすごかった。
私は兵器についてはあまり詳しくないが、音や爆弾が降ってくる感じ、見ているだけでとても怖くなってしまった。
なにわともあれ
とても素晴らしい映画だった。
カナザワ映画祭2016 ~今禁断の扉(肛門)が開かれる…『ウォーターパワー』~
これまでは、カナザワ映画祭『マッドマックス 怒りのデスロード』、『It is Fine! EVERYTING IS FINE.』、『ロッキーホラーショー』と感想を書かせてもらった。
カナザワ映画祭で見た映画の感想を語るのなら、今年で終わりのカナザワ映画祭の中でも屈指の怪作、いや超傑作『ウォーターパワー』は避けて通ることはできないだろう…。
『ウォーターパワー』日本語に訳すなら、『水の力』…。
いや、『パワー・オブ・ウォーター』ではないので、『水力』と訳すのがベストなのか…。
続きを読むカナザワ映画祭2016 〜永遠の時間旅行へ『ロッキー・ホラー・ショー』〜
今日のお昼前、何気なく当ブログのアクセス解析を開いてみたところ、
これまで総アクセス数24とかだったのが急に三桁に…。
一体何が起きてるんだ…と思いながら、ツイッターで「カナザワ映画祭」で検索をかけてみると、カナザワ映画祭主宰の小野寺さんがこのブログをツイートしてくださっていました。どこからこのブログを見つけたのか…笑
カナザワ映画祭2016 〜「体験」としてのマッドマックス〜 - ボンクラの腐った脳みそ https://t.co/5PAvjHOpDj
— カナザワ映画祭™代表 (@eiganokai) 2016年10月26日
カナザワ映画祭 〜『It is Fine! EVERYTHING IS FINE.』を観て。我々は大丈夫なのだろうか〜 - ボンクラの腐った脳みそ https://t.co/5cpThdJzbr
— カナザワ映画祭™代表 (@eiganokai) 2016年10月26日
本当にありがとうございます。めちゃくちゃ嬉しいです。
いつもなら映画を見ている時間帯ですが、今日は近所のGEOで借りた『人間ムカデ』を見たら、ただのポルノ映画というかパロディAVでガッカリしたので、ブログを書こうかなと。(というかあんなのを「ホラー」のコーナーに置くなや…。『ムカデ人間』をモチーフにしたサイコホラーだと思ってワクワクしていたあのピュアな気持ちを返せ。)
カナザワ映画祭2016は、忘れることのできない映画ばかりですが、個人的にその中でも特に印象深いのが、『ロッキー・ホラー・ショー』です。
『ロッキー・ホラー・ショー』は、もともと個人的オールタイムベストには入る作品なのですが(ちなみに1位はヤン・イクチュン監督の『息もできない』)、劇場で見るのは初めてでした。
もちろんロッキー・ホラー・ショーファンクラブ、LIP'Sもパフォーマンスも!
(僕はずっと川崎に住んでいて、カワサキハロウィンの存在も知っていたのにヴァージンを守り抜いていました。。。ピュア!)
ということで、かなり気合いを入れて準備をしていたわけです。
職場で古新聞をもらったり、100均でクラッカーとかゴム手袋を買ったり、仕事後に自宅で紙吹雪を一人でせっせと作ったり…。
なんだろう、この童貞だけどやたらセックスに関する知識は豊富な感じ…。
そして小学校の遠足以来のワクワクを胸に秘めながら会場へ!!
そしたらもう長蛇の列!!
劇場ではLIP'Sのメンバーがノイズメーカーやら何やら僕が必死に準備したものを観客に配っているではないか。しかも無料で・・・!
「僕の苦労は何だったんだ…」と思うと同時に、「何なんだこのホスピタリティは…」と驚愕した。
そして、会場にはサタニスト、高橋ヨシキ氏も(すぐ近くに座席を確保)!!
さすが噂に名高いロキホラフリーク。
しかも3年前同様(行ってないけど調査済み)、ヨシキさんからビールの差し入れが!!!
LIP'Sにいただいた英字新聞とノイズメーカー。そして差し入れの淡麗。
もうこの時点で個人的には大盛り上がりですよ。ノイズメーカー鳴らしたり、ビール飲んだり。
そして上映前にはLIP'Sによるヴァージンいじりが!!
「ヴァージンの人〜?」との声に勢い良く手を上げると、隣の方に「絶対ヴァージンじゃないでしょ笑」と言われてしまいました。
違うんだ…。知識だけが豊富なヴァージンなんだよ…。
そしてみんなでこの映画の最大にして最高の盛り上がりポイント、『タイムワープ』のダンス練習!!これがまた楽しい!!
そしていよいよ上映開始…!まずはお決まりの唇が迫ってくる!!!
もう展開は知っているんだが、高橋ヨシキさんがすごい…。
「そんな野次知らねえぞ…」というものから、車がパンクするシーンで寸分の狂いなく手を鳴らしたり、犯罪学者のおっさんのセリフを一字一句言えたり。もう近くで聞いてて爆笑ですよ。
目の前で行なわれるLIP'Sの演出にも笑いが止まらない。
ジャネットとブラッドが車に乗ってドクタースコットに会いに行くシーンで、LIP'Sのブラッド役の人が、ハンドルに見立てた洗濯干しを掲げて、「イモータンジョー!!!」って叫んでたのが今でも強烈なインパクトとして残ってる。
そして映画は続いていく。
雨が降ってきたらみんなで新聞紙をかぶる!!!
ノイズメーカーで音を鳴らしまくる!!!
そしてタイムワープではみんなで踊る!!!(写真ない!)
そしてあっという間に上映終了。
いやはや、LIP'Sのみなさん本当にありがとうございました。
しかし、これで終わりかと思いきや、、、
みんなでもう一度タイムワープ!!!!
気付いたらステージの上で踊っていました。
ただただ感無量でした。
以前のマッドマックス野外爆音上映の記事では、
映画というものは、「観る」だけのものではなくて「体験」するもの
とカッコつけて書いていましたが、これはあのマッドマックスで体験したものとは明らかに形の違う一つの「体験」でした。
なんというか、(これ以上ない賛辞を込めた)すごくいい意味で「異様」な感じでした。
すごくいい…!!
マッドマックス野外爆音上映といい、ロッキーホラーショーといい、もう本当に最高すぎる。
余談だけど、これらを体験したあとに『シン・ゴジラ』の発生可能上映の映像見たらまじで寒気した。なんなんだよあれ。
あの日以来すっかりLIP'Sの上演についても追っています。
カワサキハロウィンは今年は行けないので、立川で年末にやるらしい(!?)上演に何としてでも行きたいと願っています。
もう一度タイムワープおどりたいなー。
ツイッターの方もよろしくお願いします。
更新情報などをつぶやいております。
カナザワ映画祭2016 〜『It is Fine! EVERYTHING IS FINE.』を観て。我々は大丈夫なのだろうか〜
カナザワ映画祭が終わってから一ヶ月が経った。
全然更新もしてないけど、ひっそりとは続けていこうかと。
今回は、クリスピン・グローヴァーの『It is Fine! EVERYTHING IS FINE.』を見た感想というか、あれを見た時に感じたものを個人的に整理したい。
まずこの作品はカナザワ映画祭オールタイムベストで『ウォーターパワー』と同率で一位というカルト的人気作品。
ロングヘアーフェチのモテモテ障害者が、女性とセックスしたあと殺していくという物語。
簡単に言うとそれだけなんだけど、なんとも内容が詰まりすぎていて一ヶ月ずっとそのことを考えてた。
なんというか、見ている人間が内包している偽善的かつ道徳的に不可侵とされている(している)部分を強制的にズルムケにしてくるような感じ…(わかりづらい)。
上映後、クリスピン・グローヴァーはこの作品の原作者であるスティーブン・C・スチュワートは「障害者」としてこの映画を撮ったのではないと強く語っていた。
「ほうほう」と思うとともにこれが厄介なのだ。
なぜそう思うかというと、クリスピン・グローヴァーが何度もそのようにスティーブンの考えを代弁しているのに、質疑応答で「日本には『24時間テレビ』というものがあって・・・」という話しが出たり、「障害者のスティーブン」というレッテルが自然と僕らの中で出来上がり、それが僕らの視界の前に立ち塞がっているというのを非常に感じた。
また、映画の中で、スティーブンの言語はほとんど聞き取ることができない(「I love you」などの簡単な英語は何とか聞き取れる)。しかし、なぜかスティーブンの言葉を女性が理解していたり、物事がうまく運び過ぎたり、それを目の当たりにしたとき、少なくとも僕の頭の中には「『障害者のスティーブン』によるこれまでのルサンチマンと願望が生み出した妄想」として考えてしまうのだ。
スティーブンがこの映画で表した怒りは、何年も看護施設に入れられ自由を与えられなかったというところから来ているらしい。そこから来るスティーブンの怒りと、我々の目の前に立ちはだかる無意識なレッテルの壁、なんとも距離を感じたりする。
この映画を見た後、辺見庸がここで語っていたことを思い出した。
「病院という閉域は、刑務所や拘置所、学校同様に、人と人の関係性がいわば制度的に偏方向的になりやすい。患者と医師、囚人と看守というように<見る>と<見られる>が不当にはっきりします」(「自分自身への審問」)。
つまり、スティーブンがずっと体験してきたのはこのようなことなのだろう。
そして、映画を通して私たちは自然といろいろな意味で「見る」側となってしまっている。
ここに生まれるズレが言い様のない、ひっかかりを僕の中に残している。
この辺見庸のインタビューの中で、聞き手が「ホモ・サケル」という言葉を出している。
「ホモ・サケル」とは「剥き出しの生」と言われる。
『It is Fine! EVERYTHING IS FINE.』は「剥き出しの生」そのものなのではないだろうか。
また、この映画を見て、昔読んだ本を思い出した。
https://www.amazon.co.jp/最重度の障害児たちが語りはじめるとき-中村尚樹/dp/4794219997#customerReviews
新約聖書ヨハネによる福音書は、「はじめに言(ことば)があった」という一文からはじまる。
聖書が真実かどうかは置いといて、言葉が世界の始まりだというのは興味深い。
スティーブンが何を話しているのか、その言葉をは僕たちには聞き取れない。
しかし「言葉」というものは、口から出て空気を振動させて相手の耳に伝わることが前提になっているのではない。
「言葉」は「アート」なのである。
「アート」世界を創る。
つまり「剥き出しの生」そのものなのだ。
僕たちはいつまで「見る」側なのだろうか。
「大丈夫!すべてうまくいく!でも、お前は大丈夫か?」
このように訴えかけられているように感じた。
このような作品に出会えて、僕はとても嬉しく思っている。
ツイッターのほうもよろしくお願いします。
カナザワ映画祭2016 〜「体験」としてのマッドマックス〜
「カナザワ映画祭 2016」に参加してきた。
ラインナップもとんでもない。
そして、今日まで行なわれているカナザワ映画祭に9日間ずっと参加して、脳みそが溶けるほどの情報量をどこかにアウトプットしないと気が狂ってしまうと思った。
ということで、とりあえず一本目。
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」
(野外爆音上映@横安江町商店街)
言わずもがなの2015年随一の超傑作カルト映画。
私も何度も劇場で鑑賞しました。
立川シネマシティが音響設備をリニューアルして極上爆音上映をしたときにもそのためだけに上京しました。
散々いろいろなところで書かれていますので、内容自体にはもう触れる必要はないかと。
この野外爆音上映、まず無料で商店街で行うという気狂いっぷり!!
私も前日は寝れず、出勤前に会場を訪問するという奇行に。
このスクリーンのでかさ!!!!
しかも本当に商店街の中!
しかも隣にはお寺!
もうこの時点で「不謹慎」極まりないのではないか。
近くにはたくさんの商店が並んでいる。
廃れたコンドームの自販機もいい味を出してた。
そしていよいよ夜!!!
割と余裕を持って向かったつもりが、もう既に人で賑わっている!
ウォーボーイズの格好をした人もちらほら。
夜も更けてきた…。
うおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!
そしてなぜかスクリーンの前には太鼓がセッティングされている。
今回の野外爆音上映は、和太鼓チームDIA+と花の宴による和太鼓演奏が予定されていたのだ!
しかもみんなこいつの格好!
そして、劇中のBGM『BLOOD BAG』などを演奏!!!
圧巻!テンション上がりまくり!
そしていよいよ…!
「MY NAME IS MAX...」
(映画の画像はいろいろとややこしい利権の問題があるだろうから載せるのはやめとく…。)
全国から集ったウォーボーイズ、ウォーガールズは大興奮の大絶叫!
しかし、このときからもう雨がポツポツと…。
そしてカーチェイスがはじまる頃には豪雨!!!!!!
これでもかというくらいの土砂降り!!!!!
しかし、みんな「アクア・コーラ」を浴びながら大興奮は続く!!!(むしろ感謝している様子も…)
私はポンチョを用意していたので何とかなりました(おしりは水たまりに座ってたけど)が、中には純粋にアクア・コーラを浴びる猛者たちも!!
近くにいたウォーボーイズのコスプレをした人たちは、みるみるうちに普通の人に戻っていく!!!
これがリアル4DX!!!!!
そして爆音上映のため、音がいちいちお腹にズシンときてこれまた最高。
そしてこれまたすごいのが、字幕が全てアンゼ訳ではなくなっているところ!!
これまでアンゼ訳を見ていて、ちょっとここおかしくない?
みたいなのがちょくちょくあって、
(明らかに「insane」て言ってるのに、映画のタイトルでもある「MAD」って単語を使いたいんだろうな、みたいなよくわからない訳とか)
違和感を感じてたんだけど、調べてみると今回の訳はDIYした模様!!!
なんだこのモチベーション…。
「フクシマ!」
とかまでもしっかり訳されとる…。
そして上映が終わることには全身びしょびしょ。
全員本当に闘い抜いた感じ。
知らない人たちだし、喋ることもないのにもう心は戦友。
帰宅して次の日、思い返してみると、あんまり映画の記憶がない笑
あの空間、空気感がもうすごすぎて、全てが一つの映画となっていた。
だから画面だけが映画ではないんだよなあ。
あの会場、商店街、人、全てが一つの映画で、一つのことを同時に体験をするというとんでもない異質であり、かつ貴重な時間であった。
本当に最高だった。
やっぱり、映画というものは、「観る」だけのものではなくて「体験」するものなんだとしみじみ。
本当にいい時間だった。
気付けば冒頭から文体が崩れすぎてる笑
次回はまだ決めてないけど、カナザワ映画祭で見た映画について話をしたいと思ってます。
jzzzn