BONNOU THEATER

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ディストピア的現状を見せてくれる有り難い映画『君の膵臓をたべたい』

この間、なんとなく『君の膵臓をたべたい』を鑑賞した。


「君の膵臓をたべたい」予告

予告からしてきちーーーーーーーーーー。

結論から言うと「モテない陰キャ男子が日々のマスターベーションから生み出した妄想『純愛』映画」といった感じ。

kimisui.jp

(このサイトはなんなんだ…)

 

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キービジュアルもなかなかきついが、見ていて本当に腹立たしいシーンしかなかったので、ここに綴ろうと決意。

 

まず膵臓の病気に侵されているヒロイン。

『共病文庫』という自分の病気に関する日記をしたためているらしいが…。(まず日記のタイトルが気持ちわりー)

偶然それを拾って中身を見てしまった主人公をいろいろなところに引っ張りまわしていく。

挙句の果てには九州(どこに住んでるのかわからんけど)にまで連れて行き、ホテルを予約しており、酒を飲み、一緒に寝ようと誘ってくる始末。

正直言って怖いわ。こんな女いないだろ。

膵臓の病気云々の前に性病でも移そうとしてんのか?

更に、親のいない自分の家に連れ込み、死ぬまでにやってみたかったこととして「恋人ではない男性とイケナイことをしたい」とか言ってきて抱きついてくる。なんなんだこいつは。膵臓よりも頭の検査をしろ。

 

全体を通してみても、「こんな女いねーよ」という感想しか出てこない。

てめーの病気を逆手に取って人の人生狂わせてんじゃねー。

 

主人公も本当に陰気なキャラで、己の主張がまったくもって存在していない。

ただ振り回されるばかりで、「他人に興味がない」とか言っておきながら、お前に主張がないだけだろとしか思えない。途中でヒロインと仲良くしていることから、上履きをゴミ箱に捨てられたりしてたけど、お前本当にそれでいいのか…?

また、「他人に興味がない」と平気で言ってしまうような痛々しい男に対して、「一人で生きていこうとする姿」にとても憧れたというウソつけお前としか言えないような謎の展開にもげんなり。

少し気になって調べてみたが、柳下毅一郎氏も皆殺し映画通信で同じようなことを書いていたな。

www.targma.jp

 

極めつけは、「私は以前からあなたのことがずっと気になっていました」という、見ているこっちとしては、「あーあ。やっちゃった。」という感想しか出てこない糞展開。

 

そもそも病気で死ぬということが冒頭からわかっていつつも、途中で通り魔に刺されて死ぬという突拍子もない展開は、「どんでん返し」、「予想外」とは言わない。その通り魔が一体どのような動機で、なぜこのヒロインを殺したのか、殺す必要があったのか、まず刺された描写が微妙すぎてなにも感情が芽生えない。

 

あと、主人公がやる気のない教師という設定だけど、図書委員のよくわからないモブキャラに、自分の学生時代のあれやこれやをこんなに話さないだろ。年下に自分語りを永遠とする老害そのもの。恥を知れ。そして、クライマックスではヒロインの親友恭子の結婚式に乗り込んで遺書の存在を伝えて、メイクバッチリの状態を泣き顔でズタボロにするという他人についてはお構いなしの主人公。

 

この恭子という親友も曲者で、ただひたすらヒステリック。感情的すぎてもう手がつけられない。

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あとガムの奴。ガム君てなんだよ。

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お前本当になんなんだよ。あんなガムの噛み方、メジャーリーガー以外で俺は見たことない。ただただ鬱陶しい。

 

このような映画が大量に消費されてしまうこの国の現状を憂いでしまう。中高生たちがありがたがって鑑賞し、「感動した」、「これこそ純愛映画」みたいな腐った感性はどこで養われていくのだろうか。そもそも、日本映画で見せられる「純愛」とはなんなのか。「病気」による人の「死」、このキーワードが「純愛」として語られるのは本当に許されないと個人的には思う。「フィクションなんだからごちゃごちゃ言うなよ」という意見もあるだろう。このような意見があったり、Yahoo!映画などのレビューで割と高評価が多いのを見ると、この国の未来が心配でならない。

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しかし、この映画を見て「フィクションとはなんなのか?どうあるべきなのか?」ということについては考えさせられた。そもそもフィクションとは、「作りごと、作り話」(ジーニアス英和辞典)という意味であるが、映画における「フィクション」のあり方というものにはいくつかのパターンが存在する。SFなどの多くは、現代の科学技術では実現することが難しいが、スクリーンの中で起きている事象について、視聴者にも「疑似体験させる」ということが重要な要素となってくるはずである。ここで重要なのが「疑似体験させる」というハードルの高さではないかと思う。全く私たちの想像がつかない、未知なる世界について「疑似体験させる」ことは、意外と容易いのかもしれない(映画製作者の皆さんの苦労は相当なものだとわかりつつ…)。しかし、この類の恋愛「フィクション」的な立ち位置を取る、特に日本で中高生がありがたがって信仰し、消費する映画はその「疑似体験させる」というハードルが非常に高くなってしまうのではなかろうか。だから、フィクションだとはわかりつつ、「こんなこと起きねーよ」、「この展開はさすがにないわ」ということが起きてしまう。つまり、私たちはこの登場人物たちと同じような時間(中高生という時間)を過ごしてきたぶん、そこで起きそうなこと、起きなそうなことの判断ができてしまうのだ(私がろくな中高生時代を送ってきていないからかもしれないが…)。ここがフィクションが私たちをその世界に結びつけるか、結びつけないかの違いなのではなかろうか。この「ありそうでありえない」という塩梅の難しさがフィクションの持つ面白いところであり、難しいところなのだろう。それを踏まえた上で、この映画は「ありえない」の一択でしかないのだもっと登場人物たちに人間味が必要なのではないか。まあそれ以前の問題だけど。

繰り返すが、「フィクション」とは「この世界でまったくもってありえない世界観」のことを言うのではない。「ありそうでありえない」「ありえないけどありそう」この不確実、不均衡な部分があるからこそ、面白みがあるのだ。

 

長々と講釈をたれてしまった。しかし、男の腐った精子みたいな映画を女子中高生たちが有り難がっているのを見ると、この国には本当に未来なんてないと思わざるをえない。男の妄想に騙され、有り難がるな。だから世の男たちは女をなめた目で見るんだよ。

ただ、もしこの映画が、現在の日本に潜むディストピア的現状を見せようとしてくれているなら評価に値するのかもしれない…。