約一年ぶりの更新ですね!(年始に『LAMB』評を書いたのですが、言いたいことありすぎて下書きのまま放置してます。適当にいつかアップします。)
今年も御多分に洩れずほぼ映画を見れていません!
月一本見れるといい方。だがその一本がハズレだと最悪な気分になる。というか次に見る映画のハードルが上がってしまう。だから割と何を見るか厳選しているつもりなのだが、これがなかなか難しいんだよな。
まあそんな言い訳をぐちぐち述べつつ、今回は沖縄で先行上映された映画『遠いところ』を見た。
私はラップミュージックが好きで、唾奇というラッパーが好きだ。ファーストアルバムもよかったし、Sweet Williamとの共作も素晴らしいと思ってる。DJ RYOWとの『All Green』も父が死んだ時に聴きまくってた。割と思い入れのあるアーティストだ。
そんな彼の既存の作品ではあるが、『Thanks』という曲が主題歌に使用された、沖縄のリアルを描いた『遠いところ』という映画が上映されるということで見てきた。
公式ホームページには今作の物語が以下のように紹介されている。
沖縄県・コザ。
17歳のアオイは、夫のマサヤと幼い息子の健吾(ケンゴ)と3人で暮らし。 おばあに健吾を預け、生活のため友達の海音(ミオ)と朝までキャバクラで働くアオイだったが、 建築現場で働いていた夫のマサヤは不満を漏らし仕事を辞め、アオイの収入だけの生活は益々苦しくなっていく。
マサヤは新たな仕事を探そうともせず、いつしかアオイへ暴力を振るうようになっていた。そんな中、キャバクラにガサ入れが入り、アオイは店で働けなくなる。
悪いことは重なり、マサヤが僅かな貯金を持ち出し、姿を消してしまう。仕方なく義母の由紀恵(ユキエ)の家で暮らし始め、昼間の仕事を探すアオイだったがうまくいかず、さらにマサヤが暴力事件を起こし逮捕されたと連絡が入り、多額の被害者への示談金が必要になる。切羽詰まったアオイは、キャバクラの店長からある仕事の誘いを受ける―若くして母となった少女が、連鎖する貧困や暴力に抗おうともがく日々の中でたどり着いた未来とは。
有名な話だが沖縄県は平均給与が全国で最も低い。出生率は全国で最も高い一方、離婚率も高い。簡単に貧困層になり得てしまう環境である。我々がリゾート地として消費し続けている沖縄の影には途方もなく根深い闇が横たわっている。
本作を撮った工藤将亮監督はおそらくいろいろと取材を重ねて脚本を練ったのだろう。沖縄、コザにおけるさまざまなケースを取材していないとこの作品に対する責任が取れないだろうから。沖縄の貧困を生きる若年層への取材を通して作り上げたのであろう主人公アオイは、夫からの暴力、貧困、ネグレクト、性的搾取、義理の親との同居、親友の死などに直面し、徹底的に沖縄の闇に叩き落とされていく。
ここで先に私が本作を通して感じたことを書いておく。
「キツすぎんだろ」
沖縄の現実がキツすぎるという意味もあるが、演出としてキツすぎるだろがメインだ。
まずいかに取材をしたと言っても、17歳(という設定)の女性が性的に搾取されたり、同棲している男からボコボコにされているのを見るのがしんどすぎる。ましてやこれを男性(監督の性的指向やジェンダーアイデンティティを理解していないため、誤解していたら申し訳ない)が撮っているっていうのがきつい。それはやっぱり男性から見た女性の姿だよなと思ってしまう。沖縄の現実として若年層が不当な暴力の中にあることは理解できるが、映画としてそれを消費してしまうということに近年どうしても抵抗がある。
過去に私もカルト映画のひとつである『ウォーターパワー』などに強く惹かれ、本ブログにもレビューを書いたりしていた時期もあるが、変容していく時代の中で、女性がレイプされたり、暴力に晒される作品を見て楽しむということができなくなったし、過去の自分を恥ずかしく思うところもある。反省の日々。
また、17歳という設定の女性の陰毛を映したり、主人公が性風俗で働く中で何度も映し出される性行為の場面を私たちが画面越しに目の当たりにすることは「沖縄のリアル」なのだろうか。描写として必要なのか?あといくら子役といえど、大人の暴力を目の当たりにするようなシーンの撮影はもう少し配慮が必要なんじゃないのと思わされた。
終始沖縄の現実について問題提起をしている作品のように見えるが、後半に進むにつれて一気にフィクション味が強くなってくる。親友がアオイを性風俗で働かせている人間と揉めてその結果死んでしまったり、彼女の葬式にアオイはボロボロの私服で来てうつろな様子で死体に話しかけたりとか、急に現実味が薄れていく。その最たるものが最後のシーン。
この作品は何個かチャプターに分かれていて、チャプターが変わるたびにサブタイトルが映し出される。その最後のチャプターのタイトルは「母へ」となっている。どういう意味が込められてるのか思いを巡らせながらクライマックスへ向かっていく。
性風俗による精神的苦痛、稼いだ金を無職の夫にギャンブルで使い込まれる貧困の連鎖によってアオイはまともに育児をすることができなくなり、アオイの子供は児童相談所に保護される。それから数日、すべてを失ったアオイが夜道を歩いていると、自分の子と同じような年齢の子供を連れた女性を見かける。それが引き金となり、居ても立っても居られなくなった彼女は夜中の児童相談所へ侵入し、我が子を連れて逃走する。おいおいおい。ちょっと待ってくれよ。まず児童相談所のセキュリティどうなってんの?こんな杜撰な管理なの??保護した子供こんな簡単に回収されんの?これは「沖縄のリアル」なの???
そして子供を抱き抱えたままアオイは走り続け、沖縄の海で子供を抱き抱えたまま波間に揺れるアオイの姿が美しく、希望を取り戻したかのように描かれている。
どうなってんの?
女は「母親」になることでしかこの過酷な現実から希望を見出せないわけ?
現代の沖縄に生きる一人の女性が生きていくための希望は子供なしでは叶えられないの??
また女性に「母親」という役を押し付けるの???
これが美しい物語だとでも?
そして思い返してみると、このチャプターは「母へ」なので、明確に「母」に向けてのメッセージなわけ。じゃあ誰の母かというと監督の母しかいないよね。なるほど、この映画は監督の母親の物語でもあったわけかと思い調べてみると、工藤監督の出身地は京都府。はぁぁぁぁぁ~~~~~~~!!!???ぶぶ漬け出したろか????
結局マザコン男性が自分の母親に感謝を伝えるために沖縄を利用しただけにしか見えないんだよ。
女がどんなに辛い現実にぶち当たっても、母親として子供をそれでも愛し抜こうとする姿が美しいとする物語の軽薄さよ。
「母は強い」って言いたいだけでしょ。おじさんのよくないところが最後に出すぎなんだよな。
そしてその後アオイがどう生きていくのかは描かれない。むしろフィクション感が強くなっていってるんだから、新たな道を歩もうと決意する姿とか、沖縄の現実に苦しむ女性の解放や道標になるような結末を描くべきだったと思いますよ。あと、何もしない屑夫が地獄に堕ちていく様とかをありえなくてもいいから描いたらよかったのに。
結局男は女に守られて、子供も女が守って、女は母親としてしか生きる価値がないってもう最悪じゃん。
そんなことを感じながら唾奇の『Thanks』が流れるわけ。この曲、聴いて貰えばわかるんだけど男目線の曲なんだよね。これも一つの沖縄の現実を表した曲だと思うんだけど、この映画の物語に対して視点が真逆なんですよ。だから映画とリンクさせて聴くと全く辻褄が合わなくなってくるからストンと落ちない。一方、この映画を撮った監督の視点を考えながらこの曲を聴くと逆にストンと落ちるという謎のカラクリ。
Filmarksで他の人のレビューを読んでいると「男の人が撮った映画って感じ」と書いていた人がいて、まさにそうだよなと。
沖縄の問題は日本に住む全員が考えなきゃいけない問題であることは自明ではあるのだが、自分の描きたいもののために沖縄を利用するのは違うだろと強く感じました。