グーグルアドセンスに登録するために意地でも20記事書こうと企んでいる。
広告収入で暮らしてえ。まあ月間PV数とかも大した数ではないが。
てなわけで最近また記事を書いたりしているのだが、どうしてもまとまらん。散文的なものになってしまう。そんな中ではあるが、今回は私の大好きな映画、『アイズワイドシャット』について書こうかなと。
人生で初めてキューブリックの作品を観たのはいつごろだっけな。高校生になったタイミングくらいかもしれん。映画に興味を持ち、町山のアメリカ映画特電とか、小島慶子のキラキラとかを聴きはじめた時期だったと思う。『時計じかけのオレンジ』を借りてきて見た記憶がある。記憶としては断片的ではあるが、正直あまりに印象が強すぎて覚えていないような感じだ。映画初心者の自分には難解すぎた気もする。数年前に初めて『2001年宇宙の旅』を観たが、これもまた強烈に印象に残るという感じもなく、仕事後に見たので、冒頭から眠気が一気に襲ってきたのを覚えている。
自分とキューブリックはそこまで相性がいいわけではないと理解しつつ、『アイズワイドシャット』を観たら、これだけは私の脳裏に文字通り「焼きつく」ような衝撃を受けた。
こういうシーンもいちいちかっこいい。
まずオープニングから流れる曲がかっこいいんだよな。
あらすじはウィキペディアなりなんなりをチェックしてほしい。
おおまかには、医者であるビルが妻からの告白を聞かされて、ショックから夜の街を徘徊する…という話。*1
もっと雑な言い方をするなら、「寸止め映画」。
常に一発かましてやろうと思っていると邪魔が入る。
この映画で何について書こうかめちゃくちゃ迷っているのだが、「現実と幻想は紙一重」ということが1つ挙げられるのではないかと思う。*3
この映画で面白いのは、会話の応酬である。
誰かが発した質問をそのまま主語を入れ替えて会話をするというのが印象に残る。ビルが街を徘徊中にドミノに誘われるシーンでは、“come inside with me”というドミノに対してビルが“ come inside with you ”と返す。「自分」「あなた」という確認をするような場面が散見される。現実なのか幻想だったのかわからない世界で、自分がここにいて、相手も存在しているということを確認しながら物語が進んでいるような印象を受ける。しかし、物語が進むにつれて、他者と自分が存在しているという世界は簡単に壊れてしまう。存在していたはずの「あなた」が存在していたのかさえわからない。「自分」と「あなた」という相対的な視点で見ていた世界から、「あなた」が消失することによって、「自分」という存在さえ危ういものになってしまう。いともあっさり崩れてしまう「自分」とは一体何なのかというものを取り戻していく話であると私は認識している。
今回この記事を書くにあたって、この映画についてのレビューや論文などを漁っていたのだが、この論文はめちゃくちゃ面白かったので、一読をオススメする。
「盲目のビル―スタンリー・キューブリック、『アイズ ワイド シャット』(1999)における音の策略―」小林徹、群馬大学社会情報学部研究論集第14巻、2007
https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/1406/1/GJOHO03.pdf
この論文では、ビルは「見る」ことに異常に執着がある視覚人間で、一方妻であるアリスは「見る」ことではなく「聴く」ことを重視している聴覚人間ということが書かれている。
マンディが混濁しているシーンで自分を「見る」ように話しかけ、貸衣装屋では自分のIDを「見る」ように言い、サマートン屋敷では謎の女の仮面の下を「見よう」とし、最後には多くの仮面人間たちから「見られる」。
なるほど、この映画は「見る」ということについて非常に重要なヒントを投げかけているように感じる。そこに注目してみると新たな発見もある。
この論文では言及されていないが、興味深いのは、ビルが夜の街を徘徊しだす理由は、妻が旅行先で目が合っただけの海軍士官となら抱かれてもよかったという発言をしたところからである。しかし、その現場をビルは「見ていない」。想像の中で映像化し、「見よう」としているのだ。「見ていない」ものを事実として「見よう」としている。ビルは「見る」ことで現実を生きるが、「見ていない」ものにその現実が振り回されていく。物語の後半では、「見た」ものが果たして本当にあったことなのかがわからなくなってしまうのだ。「見る」ことで現実世界を生きてきたビルが「見ていなかったのかもしれない」という世界の不安定さ・不確実さに直面させられ、現実と幻想の境目が交錯してしまうのである。前述の「あなた」「わたし」の不確実さによって崩れ去る世界は、「見る」ことによる認識からはじまるため同じ文脈として語ることができる。
ただ、この「見る」ことに執着していた人間が「見ていないもの」に自分の存在、相手の存在そのものを揺るがされてしまうということは、いかに現実世界と幻想世界が紙一重であるのかということが伝わってくる。幻想の中に生きる人の現実は幻想なのである。現実に生きる人にとって幻想は幻想なのである。私たちはどちらに立っているのだろうか。
この世界は常に不確実なものである。完全ではない。必ずどこかでバグが生じる。あいつの現実と私の現実は違う。しかしどちらも現実である。また、どちらも幻想である。
自分の話になってしまうが、この間30前後の年齢にして立てないぐらいベロベロに酔ってしまった。寝ながら吐きまくっているときに、自分の頭の中にはよくわからない女性の声が繰り返し鳴り響いていた。これは現実なのか?という状況に立たされ、目が覚めてから、前日までの自分の現実と、今自分が見ている現実は同じ世界なのだろうかという思いがずっと抜けないままでいる。それくらい現実というものや自分という存在はあいまいなものだ。
この映画のラストでは、ビルがアリスにこの先どうすればいいかと問う。
アリス「大事なことは私たちは今目が覚めている。そしてこれからも一緒にいる。」
ビル「永遠に。」
アリス「永遠と言う言葉は嫌いよ。」
というやり取りがある。永遠は幻想なのだ。
そのあとアリスは「私たちはすぐにやらなければいけないことがある。」と言い、
“Fuck”
と一言言ってエンドロールに入る。
ビルが見た世界ではFuckは存在しなかった(できなかった)。ビルの想像の世界でもアリスがFuckしていたのかはわからない。アリスが最後に投げかけるこの言葉は、現実世界とビルを再びつなぎとめるための言葉なのだ。
ラッパーのNasは“sleep is the cousin of death”と言っていた。
「睡眠は死のいとこ」*4
同じくらい現実と幻想の境目は曖昧なのである。
私達はそんな世界の中で生きている。
“EYES WIDE SHUT”
目を開くことを目を閉じることはあまり変わらないのかもしれない。
*1:このあたりも以前書いた記事に通じるものがある。
そもそも「人妻」である自分のパートナーは浮気なんてするはずがない、という役割の押し付け自体がすべての始まりであり、元凶である。
*2:この部分については町山智浩も伊集院のラジオで言っているのを聞いた。
ただ、町山智浩のこのところの歯切れの悪さというか、昔まであった熱さはどこに行ってしまったのか。最近の評論を聞いてもぱっとしないものが多い。昔花見とかにも参加してサインとかもらってたんだけどなあ。愛人騒動や進撃の巨人騒動のあたりから雲行きは怪しかったけど、もう私を熱狂させるものではなくなってしまったな。
*3:THA BLUE HERBの『SHOCK-SHINEの乱』では「真実と幻覚は紙一重」とも言われていたな。脚注にする意味もあまりないが思い出したので…。