BONNOU THEATER

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家族は結局他人と他人の集合体にすぎない『フレンチアルプスで起きたこと』

 

『フレンチアルプスで起きたこと』を見たのだが、これまた見ていて息の詰まる2時間を過ごした。

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7月4日(土)公開『フレンチアルプスで起きたこと』予告編

 

家族4人でスキー旅行にやってきた家族が人工的に発生した雪崩が迫ってくることから、家族関係が歪んでいって…という映画。

これも数年前の映画なので、あえて長々とあらすじを書いたりはしたくないので、気になる人は公式ホームページまたはYouTubeで予告でも見てほしい。

 

この映画、「あるある感」がやばいのだ。(いろいろ探してるとジェーン・スーも同じようなことを語っていた)

miyearnzzlabo.com

しかし、厳密に言うと、「まったく同じような体験をしたことはないけど、この空気を知っている!」というあるある感なのだ。

父親が自分ひとりだけ逃げ出してしまう、という展開、これは「自分もしてしまいそう」という男という生物学上の根底にある本能の部分で不安を感じずにはいられない(動物ではメスが子供を守るというイメージが大きい分…)。それによって崩壊する日本でいうところの「大黒柱」としての信頼。それに伴った、もっとも気持ち悪い言葉で言うと「家族の絆」。

男はこの「大黒柱」としての信頼に死にもの狂いで食らいつく。自分は逃げていない、認識の違いだとのたまってまで…。スマホで動画を撮っているのを見せつけられても(ここまでしないであげて…とも思ったが、これもまた私の男としてのプライドなのだろう)、自己保身に走ろうとする。そして最終的にはなんか父親が大泣きしているところに子供が擦り寄ってきて、シラーーーーっとした空気が流れるのである。

 

私はフェミニストでもジェンダー活動家でもなんでもないし、そういう一種の力の構造には飲まれたくないと思っているが、この作品は嫌でも男性性、家族、その中でのロールプレイということについて考えざるをえなかった。

自分語りになってしまって嫌なのだが、私の父は私が幼少期の頃から鬱持ちであった。鬱持ちで家族内がどんよりした日がずっと続いているときもあった。しかし、一方でキレると手がつけられないという一面もあった。そんな父は恐怖の対象でもあった。正直言って大黒柱という一面よりも成人男性の幼児性にいつも向き合わされていたように感じる。私が高校生の時、父が母とのちょっとしたいざこざからブチギレて手が付けられなくなってしまい、これは刑事事件に発展するのでは…という状況でなんとかその場を収めたことがある。父はそのとき手を上げたことに謝罪するでもなく、ヘッドフォンを耳につけて音楽を聴き始めたのである。この光景は私にとって非常にショッキングなものであった。一方、母の事を「自分の母親でもある」と断言してしまう姿を見て、ドン引きすると共に、この生物は一体何なんだと思わざるをえなかった。

 

話がそれてしまったが、男性の中に存在する糞ほどしょうもないプライドと、糞ほどどうでもいい幼児性についてどう向き合っていくべきなのだろうか。これは間違いなく私の中にも存在するのであろう。社会から押し付けられた「男はこうあるべき」というステレオタイプなイメージが、少なくとも男としての大黒柱的プライド(頼れる父親、強い男)を築き上げている一旦を担っていることは確かであろう。そしてその姿をこの映画の母親も求めていたのだろう。また、この映画に出てくる髭モジャの男も女が言った小さいことを気にして寝れない、というまたしてもしょうもない幼児性をあらわにしてくる。男っていうのは幼児が大黒柱的イメージの衣をまとった姿でしかないのだろうなと思わされる。最後の父親がわんわん泣いているところに子供たちが寄り添ってくるシーンは、はじめて父親に子どもたちが積極的に近付くシーンである。幼児としての父を目の当たりにし、同じく幼児である子供たちは「かわいそう」とはじめてシンパシーを感じた行動なのではないか。逆に言うと、子供の幼児性につけこんだ父の幼児性とも言えるのではないだろうか。しかし、一方で子供達は子供達としてのロールプレイを果たしているシーンだとも言える。家族を再び構築しようとして…。正直辛すぎるだろこれ。そして最終的には、この作品の母親のように雪山でトラぶったとしょうもない芝居を打ってまで、男を立て、「家族の絆」というものを取り戻さなければならないのか。「家族の形」とはここまでツギハギなのか。答えは出ないけど、まったくキラキラしたものじゃねーな。家族というのはどこまでいこうとも、それは「人間と人間の関係」でしかないのだ。それは結局「他人と他人の関係」である。日本では「家族の絆」みたいなこれまた糞よりも役に立たなそうな言葉が氾濫しているが、家族は所詮ドミノと同じで、並べていったら一見すごいものになるが、ちょっとしたことですべてが崩壊する不均衡なものなのだ。残念なことにたまにしか会わない友人みたいなのとは違い、自分とは異なった人間と毎日一緒にいるぶんそのアンバランスな部分で均衡を保つのは難しい。

他人であるのだから過度な期待はするな。結局こういったところに帰着するのだろうか。私もパートナーを持つ者として、この自分の中に存在する「ガキ」と「オス」ということについて自覚して生きていかなければならない。もはやこれは雄の持つ病理なのだろう。

 

リリーフランキーが自身の鬱病について「鬱は大人のたしなみ」と言っていた。*1つまり、自分の中にある病気とどう付き合っていくかということだろう。これは自分の中に孕んでいる「オスガキ」的なことにも言えるのかもしれない。ただ結局はうまく付き合っていけとしか言えないのか…?

 

なんか男批判みたいになったのが釈然としないけれども…。

常に考えながら私たちは生きていかなければならないということか。

ただひとつ言えることは「家族の絆」なんてくそしょうもない言葉で現実から目を背けようとするな。

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(文部科学省『私たちの道徳 中学校』より)

本当にくだらん。 

 

このブログはこの映画について、夫から見た妻という視点についてもとても良く書けてたと思う。非常に参考になった。

https://chateaudif.hatenadiary.com/entry/20150731/1438343120chateaudif.hatenadiary.com 

世の中高生は『キミスイ』なんて見て、感性を腐敗させてる場合じゃない。

jzzzn.hatenablog.com

こういう映画を観ろ。これが現実だ。現実を観ろ。

男っていうのはしょうもない生き物なんだぞ。

家族ってのはキラキラしたモノじゃないんだぞ。

目を開け。