BONNOU THEATER

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川崎の「リアル」と「リアル」の先にあるもの〜漢 a.k.a GAMI『ヒップホップ・ドリーム』〜

中学校の頃から、文化祭で同級生がケツメイシを歌っていたり、学校にとあるラッパーがやってきて、運命的な出会いをするということもあった。昔からヒップホップに対して興味があった。高校生になるタイミングで神奈川県川崎市、もっと言うとその中でも「ディープサウス」と勝手に私が呼んでいる地域に家族で移住した。親の転勤が多かった私には心から分かり合える友人もいない、自分の地元もない、民族的なアイデンティティの崩壊もあり、鬱屈した人生を送っていた。その頃、周りにはラッパーの先輩がいたり、中学校のときに出会ったラッパーとの再会もあって、ジャパニーズヒップホップにドハマりしていく。入口はキングギドラブッダブランドだった。ギドラのアルバム『空からの力』とブッダの『人間発電所』にはとてつもない衝撃を受けた。更には、一時期は私もラッパーになりたいと思っていた。高校生の頃から横浜のLAFAYETTEやChop’n Rollに通い、貧乏高校生なりに頑張ってNITRAIDなどの服を着ていた。

そんな中、ダメレコが一世を風靡していた時代、TARO SOULがメジャーレーベルから曲を出すというので、キャンペーンでリリースパーティの抽選が偶然当たった。渋谷CLUB asiaだったかで、昼のイベントだった。高校生だった私も中学生の弟を誘って二人で見に行った。その会場の入り口付近で初めてMC漢を見た。印象はデカい、イカツい、こえー。あのときの漢の表情は覚えていないが、暗闇の中でのシルエットは鮮明に覚えている。弟と一緒にビビッていた。もはや漢の印象が強すぎて、TARO SOULのライブは覚えてすらいない。

時は過ぎ、大学を卒業し、路頭に迷ってニートだか大学院生だかをしていた時だと思うが、PRIMALの『プロレタリアート』が発売された。このアルバムは当時ニート上がりでくすぶっていた自分にはとても刺さるものだった。そのリリースパーティを見に、友人たちと恵比須リキッドルームへ行った。MCバトル『BEDでBET』の番外編的なのも開催されていた記憶がある。あのとき会場には芸人のダイノジが来ていたのも覚えている。そしてPRIMALのライブでは少佐やDOGMAも登場し、会場のボルテージが上がっていく。そしてラスト間近になったところで久々にMSCが集結するという最高の展開が待っていた。初めて見るMSCのライブは衝撃的だった。O2もいた。あの衝撃と、体に深く刻み込まれるかのようなリリックは今でも覚えている。歴史の目撃者となった気分だった。

その後、漢がLIBRAと揉めていることを知り、DOMMUNEで記者会見しているのも見てきた。

そんな(個人的な)歴史があり、前々から気にはなっていたんだが、たまたまYoutubeを漁ってたら、菊地成孔がラジオで漢の『ヒップホップ・ドリーム』をめちゃくちゃオススメしていたのもあり、今更購入して読んだ。正直、あまり期待せず買ったのだが、これがもう大当たり中の当たりだった。

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「リアル」とは何なのか。それを馬鹿みたいに真面目に向き合ってきた拡声器集団、MSC。ストイックでありすぎるあまり、さまざまなトラブルに巻き込まれたりする様がそれこそ「リアル」に語られている。なぜこれほどまでに引き込まれるのか。何度も言うが紛れもないストリートの現状で、「リアル」に体験したことが綴られているからだ。何度も出てくる「ストリートビジネス」なんてものが本当にこの日本社会で成り立っているのだという実感と、その暗部。そのストリートの中でのラッパーたちとの出会い。ヘッズなら誰しもが胸を熱くさせる話が盛りだくさんだ。

その中で印象に残っているのは、「リアル」を追求するあまり、「刺す」と言ってしまったらそれを1週間以内に実行しなければならないというルール*1。この危うさ。つまりは「ノンフィクションを自分たちで生み出す」という行為である。私は詳しいわけではないので、突っ込まれたら反論のしようがないのだが、感覚的に、創作物として存在する「ノンフィクション物」とここで語られる「リアル」は明確に違う。前者が「起きたことを見つめ返す」作業なら、後者は「起こす」ということになる。これには非常に危険が伴うだろうし、スリリングでもあるだろう。自分の言葉に責任を持つということを究極的に突き詰めた結果であるだろう。ただ、これが適当な遊び感覚のものだったのだろうかと考えると、そうではないはずだ。新宿ストリートの中で彼らが歌ってきたものはすべてが「リアル」であった。直訳すれば、「本当のこと」であり、それは同時に「不条理」でもあったはずだ。生半可では生きていられない。リアルこそが現実であり、不条理そのものであるから。そんな彼らだからこそ、リアルとは、フィクションは許さないという断固たる態度なのである。

 

私が見てきた川崎のリアル

『ヒップホップ・ドリーム』を読んでいると、自然と自分がこれまで体験してきたストリートの現状を思い出さずにはいられなかった。先述の通り、私は高校生の頃から川崎に引っ越して思春期の鬱屈した時代を過ごした。あのBAD HOPがレペゼンしている地域の本当に真隣に住んでいた。そして、誰とも共感できない自分の感情をどう表現したらいいかわからず、いろんなことに手を出した。その中でさまざまなストリートの現状を目の当たりにしてきた*2。ただ、以下の事はフィクションだと思ってくれていい。

タバコと小学生

大学生の頃、ある小学生との出会いがあった。彼は小学生でありながらもまさしく不良であった。小学生にしてタバコを吸っていたし、中学の先輩たちとよくつるんでいたのを知っている。暴走族とのつながりもあったんだろう。川﨑ディープサウスはそんな街だ。小学生の彼には同じ小学校に通う弟と妹がいた。父親は離婚していなくなっており、今の時代珍しいボロボロの長屋に住んでいた。母親は夜の仕事。必然的に彼らは夜を兄弟だけで過ごさなければならない。彼らの家は夜でも鍵を閉めない家だった。また、時には借金の取り立てが夜に来たこともあるという話もしていた。そんな彼らの面倒を少し見ていたりもした。ただ、彼らに対して何かできたという実感のようなものはない。あるとき、彼と一緒にいると、どんな会話をしたかは忘れたが、「私、この先どうなるんだろう。まあどうにもならないだろうけど。」と飄々と語っていたのが忘れられない。彼は小学6年生だった。そのとき、彼と一緒に吸ったタバコと背中は忘れられない。その後、彼らは遠い場所へ引っ越してしまった。今はどうしているのかもわからなくなってしまった。

生きるためのビザ

ある家族がいた。その家族は俗に言う不法滞在であった。観光ビザで日本に入国し、ビザが切れても居住を続けていたらしい。ある朝、その家族の母親が血相を変えていた。父親が入国管理局に連れて行かれたとのことだった。話を聞くと、朝早くにアパートのインターホンが鳴り、父親が出たところ、入管の職員が立っていたらしい。彼には幼い娘と息子がいた。奥さんと子供たちは声を押し殺して部屋の奥に潜んでいて見つからなかった。自国では生活に困窮し、藁にもすがる思いでやってきた国ジパング。しかし、そこでも生活に苦しみ、子供も結核とかになっていた。それでも生活の基盤を作りなんとかやっていた。子供の母語は日本語だ。日本でしか生きられない。彼は数日後に何とか戻ってきて、ビザを得ることもできた。後に娘は10代で幼馴染の男とできちゃった婚をしていた。それもまた川崎らしい。川崎ではオーバーステイで強制送還される人がたくさんいた。昨日まで遊んでいた友達が、次の日には突然、文字通り蒸発したかのようにいなくなってしまうということは普通にあった。

残された余白

2015年2月20日川崎市中1生徒殺害事件」が起きた。

ja.wikipedia.org

川崎を「カワサキ国」として全国に知らしめることになった強烈な事件だ。非常に痛ましく、今でも記憶に新しい。ワイドショーやネット掲示板、いろいろなところで事件の真相について議論されていた。犯人の顔や名前もいち早くツイッターで拡散し、世論を含めた言いようのない不気味さもあった。私がこの事件について語れることは何もない。1つだけ知っていることは、この事件の加害者の母親は私の親と知り合いだった。そして彼女は外国人だった。当時、ネットでは加害者の住所が特定されていたのもあり、1度だけ興味本位から家を見に行ったことがある。普通の家だったが、同じように住所を知ってやってきた奴らにやられたと思われる落書きが壁にはされていた。家の明りは灯ってはいなかった。この事件については、まったくもって許される話ではない。しかし、この事件の余白に残されたものは一体何なのだろうか。『全員死刑』の小林勇貴監督がVICEで語っていた話はとても印象深い。

2014年にカナザワ映画祭で『NIGHT SAFARI』を上映してもらったとき、雑談のなかで主催の人が言ったんです。「少年のリンチ事件の報道を見ていると、よく事件後にバーベキューをやってるけど、あれってなんだろう。暴力をチャラにしたかったのかな」と。それがずっと頭に引っかかっていて。https://www.vice.com/jp/article/ywqzqm/yuki-kobayashi-gyakuto

あの事件にあった余白とは一体何なのだろうか。彼らは何をチャラにしたかったのだろうか。それは今でも私の頭の中をチラついては消え、またチラついてはまた消える。

 

これらは、氷山の一角ではあるが、こういった現実を私も生活の中で目の当たりにしてきた。

 

 

「リアル」なものは一般論では語れない

「大学生と小学生が一緒にタバコを吸うなんてあってはならない!」

「不法に滞在しているのはルール違反!」

「外国人の子供が殺人鬼だった!」

一般論で断罪するのはとてつもなく簡単だ。頭も使わなくて済む*3。しかし、「ストリート」、それこそ「道端」に落ちている「リアル」という「現実」には必ず一般論で語ることのできない領域があるのだ。すべてグレーゾーンであるかのように。何が正しくて、何が間違っているかは簡単に決めれるものではない。だからこそ不条理が蔓延する。

 

漢が『ヒップホップ・ドリーム』の最後に綴っていた文章は身に染みる。

人との出会いは過去・現在・未来の自分との出会いだ。イキのいい若いラッパーは過去の自分の姿かもしれない、でかい野望に向かっているヤツは現在の俺と同じ立場なのかもしれない、そしてでかい仕事で成功した人間は俺が未来にこうありたいと願う姿なのかもしれない。

(漢 a.k.a GAMI『ヒップホップ・ドリーム』河出書房新社、2015、p.230)

私は周りに存在する自分以外の人間は、次の自分(輪廻的な)が経験するかもしれない自分の姿なのだという思想を持っている。つまり、私は私であると同時に、あの人もこの人も私であるという考えだ。つまり、誰しもが私がなり得た、これからなる可能性の1つである。私が川崎で見てきたあいつらもまた1つの私の姿である。

「リアル」とは自分であり、可能性でもあるのだ。

 

ヒップホップ・ドリーム

ヒップホップ・ドリーム

 

 

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

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*1:『ヒップホップ・ドリーム』p.101

*2:川崎のディープな部分については磯部涼が書いた『ルポ川崎』CYZO、2017がとても参考になる。私が書いているエピソードもこの本の中で出てくる地域が舞台になっている。

*3:頭を使わなくて済むということそのものが日本全体が抱える闇であり、課題であるだろう。みんな簡単で単純なものにしか目がいかなくなってしまっている。