先日、とある個人の方がやっている上映会にお邪魔してきた。
そこで、はじめて『この音が聴こえているか』という映画を鑑賞した。
制作:チーズfilm
監督:戸田彬弘
音楽:和紗
出演:森元芽依、田谷野亮、菊池豪、山林真紀、秋山玲那、川住龍司、上原靖子、小島響子、桜乃まゆこ、田中愛生、松崎映子、大谷幸弘
あらすじ(ホームページ:チーズfilmより)
ファミレスで待ち続ける男・水原。目の前には 変わらずハンバーガーセットが食べ残されている。死者に会えるという噂を頼りに会う方法を探し続ける男・生瀬。生瀬の耳には恋⼈の愛が弾いていた「この道」が聴こえ続けている。どこにも⾏く事のできない⼥・波江は⽔原と会うことを願い続けている。やがて交わる事のできない死者と生者は、互いに想像する事で誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを祈り始める。
(http://tuki1.jp/archive/15apr/15apr02/より)
30分ほどの短編映画なのだが、これがまあなんというか、完全に心を持っていかれてしまった。
ストーリーがどうのこうのとか、演出とかではなく、言語化が非常に難しい。感情に訴えかけてくるような、とても感覚的な映画だった。簡単に感想を残しておきたい。この映画は生きている者と死んでいる者の話しである。制作が2014年となっており、度々海辺のシーンが流れることから、おそらく3.11をかなり意識しているのではないかと思われる。
予告動画を見ていると、同じセリフが繰り返される。
「言葉は新しく生み出せないから、私はこうすることしかできない。踊ったり、笑ったり、いつか誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを願っている。」
水原という男は、ハンバーガーセットを傍らに、レストランのボックスに一人佇んでいる。彼は、失ってしまったのであろう波江のことを思い返し、会いたいと願っている。波江も同じく失った水原のことを思っている。この映画で非常に印象的なのは、セリフの繰り返しである。上記の予告動画に流れるセリフもそうであるが、劇中で水原と波江がデートをしたあと、明日も会う約束をするシーンのセリフは何度も繰り返される。そして、その一つのセリフをさまざまな表情で表すのである。明るく、「また明日」という希望を見出しつつ心が痛む「痛い」というセリフ、悲しみの中で思い出すように、叫びのような形となって語られる同じセリフ。そして、「痛い」というセリフが「遺体」という言葉に変わる。登場人物が死んでしまっているのだということを知る。
冒頭にも書いたが、個人的な見解でもあるし、おそらくそうなのだろうと思うのだが、3.11をかなり意識しているように感じる。波打ち際でのやりとり、突然愛するものが奪われてしまったという喪失感、やり場のなさ、失った現実を受け入れられず死者と会う方法を探し続ける者。。。あの日のことを思い出さずにはいられないのだ。あの災害によって愛する人、家族を失ってしまった人は同じような気持ちだったのかもしれない。むしろ今もそうなのかもしれない。そのようなことに思いを巡らせていると、予告にも使われているセリフがだんだんと現実味を帯びて迫ってくるのだ。
「言葉は新しく生み出せないから、私はこうすることしかできない。踊ったり、笑ったり、いつか誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを願っている。」
この世界から自分が失われてしまったとき、残された者に言葉で語りかけることはできないのかもしれない。だから、踊ったり、笑ったりすることで、誰かの記憶に残り、永遠に生き続けることができるのだ。と語っているのではないだろうか。その事実に生きている者も死んでいる者も向き合うことによって、私たちはもう一度、出会えるのだ、一つになれるのだと語りかけているように私は感じた。
(『この世界の片隅に』下巻より)
『この世界の片隅に』でも同じことをすずさんが言っていたような気がします。
「生きている」ということ「死んでいる」ということはあまり変わりはないのかもしれない。しかし、その2つの壁は非常に大きい。だが、そうであったとしても、私たちは人の記憶に残ることができる。記憶の中で私たちは、私たち自身を新しく生み出していくことができるのだ。記憶になった者、記憶をする者、この関係は死していようが生きていようが変わることはない。どこかでその二つが交わるときがこの世界にはあるはずだということを示してくれたとても素敵な作品であった。
こんなに素晴らしい映画が埋もれてしまっているのは本当にもったいないなあと思う。
ソフト化を激しく希望しております。
jzzzn(@bonkurabrain)
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