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ツイッターやってます(@bonkurabrain)。映画について書こうかと。映画は体験であって、映画が不謹慎で何が悪いがモットー。本、映画、宗教の話が好き。

〜日常から奪われていくもの『この世界の片隅に』〜

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今年は良作が豊富だなあと思いながら、予告だけで涙ぐんでしまった映画『この世界の片隅に』。

映画『この世界の片隅に』予告編

11月に公開されているというのに、金沢では12月17日まで公開しない…。

どうなってるんだ金沢!!!(シネモンドさんには感謝!)

東京いったときにでも見るかあと思っていたけれども、どうにも我慢できず、福井コロナシネマワールドまでいって鑑賞。(なんでこんなところでは上映してるんだ…。)

 

前評判もかなり高く、Yahoo!映画(2016年11月26日22時現在)では4.48点という数字を叩き出していた。

movies.yahoo.co.jp

そのため、私もハードルを上げに上げて鑑賞したのだが、これがもう心が洗われて、ほほえましく、涙が流れ、最終的に号泣するという始末に。

 

この映画を語る人たちで議論になっているのは「反戦映画」なのか「反戦映画ではない」のかということらしい。

lite-ra.com

 

私はそもそも「反戦」かどうかという議論をこの映画に持ち込むべきなのかどうかがまず疑問である。

この映画は、すずさんが広島で幼少期を過ごし、一目惚れしたという周作の家に嫁に行き、嫁入り先の呉市で過ごすという至ってシンプルな話である。

この物語の中ですずさんは正義感を振りかざして「戦争はいけない!」とは言わない。

そこがこの映画の魅力だろう。

そんなこと「言えない」し、そもそもそう思ってさえいない。

 

「何でも使うて、暮らし続けにゃならんのですけぇ。うちらは。」

 

これは日常なのである。

だから「戦争はおかしい!」なんて言わない。

しかし、少しずつ少しずつ自分たちの日常から大切なものが奪われていく。

 

「鬼いちゃん」、「スケッチブック」、「姪」、「右手」、「家族」

 

戦争によって奪われたなんてすずさんは一言も言わない。

 

日常を追い求める中で私たちは辛いことがあっても日常に戻っていこうとする。

しかし、この映画ではいつの間にか、日常にあったものがどんどん奪われていってしまう。

 

しかし、「戦争が終わった」ということを知ったときに戦争は過去のものになり、今まで暮らしてきていた日常が「戦時中の日常」だったということに気付かされる。そのときにすずさんは心の中でこれまでうっすらと感じていたものの、決して感情には表さなかった奪われていってしまったものを正面から自覚し、受け止めなければならなくなった。だからこそのあの涙と心の叫び、「ただ何も考えずに楽しく暮らしたかった」という言葉につながるのだろう。

 

こんなことがあったから戦争はダメですよ!

というのは戦争で何があったのかを勉強し、聞いた現在を生きる私たちが言うのであって、この映画のすずさんはそうは思っていないだろう。

 

そして、戦争が終わったという重要なシーンではこんな議論もされているとのこと…。

togetter.com

大丈夫なのか…。

 

映画ではこのあたり、なぜ太極旗が掲げられていて、すずさんが号泣するのかはよくわからなくなっていた。漫画ではすずさんのようなおっとりしたキャラがこのシーンで、はじめて自分の日常の中に抑圧されていた人間がいたことを知るのだが、あまりにも唐突すぎるし、すずさんのキャラに合っていないという意見もある。

しかし、私はこの点においては漫画版の方がよかったなあと思う。

この映画のテーマは「日常」であって、「日常」の中で気付かないうちに大切なものが奪われることがあり、その一方で自分も誰かの大切なものを奪っているのかもしれないということなのだ。

 

映画では白木リンにもあまり触れられていないのが残念だ。

「誰でも何かが足らんぐらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」

と言ってすずさんを励ますシーンが原作にはある。

「この世界の片隅」に私たち一人ひとりが生きていて、その中で「日常」を過ごしている。

 

この映画を見て、反戦かどうかを議論してる人たちはこの映画の何を見たの?としか思わない。

 

あと、兵器描写もとてもすごかった。

私は兵器についてはあまり詳しくないが、音や爆弾が降ってくる感じ、見ているだけでとても怖くなってしまった。

 

なにわともあれ

とても素晴らしい映画だった。