BONNOU THEATER

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『斬、』境目に立たされる

寒くなってきたなあ。

この季節になると菊地成孔の音楽を聴きたくなってくる。

realsound.jp

このインタビューを読んでいると、いかにしてフェティッシュ抜きでフラットな状態で映画について語るのか、素人ながら非常に考えさせられる。そもそも映画をどのような切り口で開いて解剖していくかが問われていて非常に難しい。ちなみに『菊地成孔の欧米休憩タイム』はサインまでしてもらったのに積読状態。年末に読めるかなあ。

 

もうあっという間に年末で、いろいろ記事を書こうと思いつつ、年末の忙しさで、何もできず…。書きかけの記事ばかりが溜まっていってしまい辛い。というわけで、今回も私のフェティッシュにがっつり引っかかった映画の記事を書いておこうかなと。

この間シネモンドで塚本晋也監督の『斬、』を見てきた。これは舞台挨拶付きだったので、絶対に行かねばということで、ここぞとばかりに招待券を使った。

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zan-movie.com

映画の内容は、剣術の腕前はあるが、人を斬ることができない杢之進。幕末の最中、杢之進は「人を斬る」という行為そのものに苦悩と葛藤を覚えていく…といったところか。

youtu.be

今回の舞台挨拶付き上映、何が良かったかというと、塚本晋也監督自らの音響調整タイムがあったため、音が本当に良かった。。巧妙とまで言っていいであろう音の使い方は本当に印象的であった。刀を握ってにじり合う剣客同士の緊張感の中、刀の鞘を握る材質と皮膚のこすれ合うような音、微妙な手の震えからなのか、鳴る刀。私は日本刀を持ったことはないので、本当にあんな音が鳴るのかはわからないし、鳴らないとは思うのだが、映画を見ていると、「刀握ると音が鳴るんじゃね?」という気にさせる。そして、その細かな音がピッタリと映像とマッチして厭〜な緊張感を高めてくれる。手に汗握る、下手をすると死ぬというあの刹那的瞬間を音一つで表現しているのは感服した。

 

音楽もとてもよかった。亡くなってしまったが、石川忠さんって本当にすごいんだな。この間DOMMUNEでも特集組まれてたな。

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上映後の舞台挨拶でも質問されていたが、この映画は幕末を舞台としているのだが、登場人物全員、現在私達が日常で使用している言葉を用いているのも一つのポイントである。塚本監督は、「現代を生きる人が幕末へタイムスリップしたようなものにしたかった」と言っていたが、はじめは違和感があったものの、すんなり入り込むことができた。中村達也が演じる源田瀬左衛門の一行に「私は、都築杢之進です」と自己紹介する場面ではこの純朴な青年の人間性を理解する上ではとてもいいセリフであった。

 

また、一人ひとりの登場人物がしっかりと個性が出ていてよかった。これは後述するが、中村達也のキャラクターは本当に良かった。そして、池松壮亮はもちろんのこと、何よりも蒼井優がすごかった。この個性的な演技をもう本当に独自のものとして確率している感じは圧巻であった。最後の叫びなどもただただ恐れ入った。

 

境目に生きる

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『斬、』公式サイトより

ここまでは映画の表面的な部分での評価であるが、少し内容を掘り下げておきたい。

武士としての自分を確立したいと願う杢之進は、人を斬った経験がないことが発覚する。澤村(塚本晋也)は杢之進に人を斬るように(最終的には自分を斬るように)仕向ける。

この映画の根底に流れているテーマは「越境」だと感じている。

「越境」とは、あまたの映画の中で描かれる「イニシエーション」にも近いものかもしれないが、ここではこの2つの言葉は明確に分けておきたい。「イニシエーション」とは「通過儀礼」であって、子供である個人がある事象をきっかけに、大人へと近づいていく現象として理解されていることが多い。しかし、ここで使用する「越境」とは「イニシエーション」という言葉だけではなく、文字通り「crossing the border 境目を越える(てくる)」者たちという意味も含み、それらを包括してものとして使用していきたい。そして、この映画に関して言うと、様々な角度でこの「越境」が描かれる。

その中でもまずひとつ挙げられるのは、源田瀬左衛門の存在だろう。源田を演じている中村達也は本当に厭〜な役をやっていてびっくりした。なんとも言い難いあの厭な感じは誰しもが既視感を持っただろうに。例えるなら、コンビニの前でしゃがんでたむろしているヤンチャな集団、こっちから仕掛けなければ何もしてこないが、何かのきっかけで突っかかってきそうな感じ。でも何がきっかけになるかわからないから、触れないに越したことはないというとてつもなく厄介な存在。『斬、』のパンフレットでは映画評論家の森直人が彼らのことをヨソモノ(移民)と書いており、庶民―権力―ヨソモノという3つの点でこの世界観を捉えていた。((『世界を覆う「負の連鎖」と原型的な暴力の縮図―「鉄男」の反転、「野火」の続篇』、『斬、』パンフレットよりその通りである。彼らは間違いなく「越境(してくる)者」なのである。境目を越えてやってくる者だ。そんな彼らに対し、杢之進は彼らと酒を飲み交わし、彼らがこれまでやってきた行いの話を笑いながら聞く。源田たちがやってきたことは、「やられたらやり返す」というものだが、「そこまでやらなくてもよくない…?」というものばかり、はたから見ると蛮行である。しかし、杢之進はその話を聞きながら笑っている。ここの時点で杢之進の持つ危なさがうっすらと見えてくる。杢之進は「越境する者」でも「越境してくる者」でもなく、「境目に立つ者」なのだ。庶民と権力の境目に立つ者、ヨソモノの境目に立つ者、庶民とヨソモノの境目に立つ者であるのだ。つまり、何か(簡単な)きっかけさえあれば杢之進は簡単に境目を越えてしまう危なっかしさを感じるのだ。

澤村の登場により、杢之進は人を斬るという行為に葛藤する。刀一本で人の命を簡単に奪うことができる現実と、誰かを大切にしたいという現実。この映画は、「暴」と「性」が対比的、あるいは同じベクトルで描かれている。杢之進はゆうに対して特別な感情を抱いてはいるが、決して交わることはない(家屋の木目から指をなめたりなどのメタファー的描写はある)。また、どれだけ残酷な状況を目の前にしても人を斬ることができない杢之進(剣術の訓練などは怠らない)。本番行為はできないが、練習はしっかりしている。杢之進童貞説というか、「杢之進ED説」だろうな。

「私も人を斬れるようになりたい」と杢之進が繰り返し言う場面では境目に立つ者の葛藤を表している。人はいろいろな境目に立たされている。まだ見ぬ未知の世界への憧れ。しかし、その境目を越えることの怖さ。自分が自分でなくなるのではないかという恐怖感。これは「人を斬る」ということに限ったことではなく、現代を生きる私たちも日常で問われ続けることである。あまりいい例が思いつかないのだが、童貞を捨てるという行為や、ドラッグへの憧れ、など私たちの理性がギリギリのラインで働く部分にといての葛藤があるはずである。自分が保てるのかどうかというギリギリのラインにおいて、人間は葛藤し、その先にある自分の姿を想像し、憧れ、恐怖する。杢之進は残酷な現実に直面させられ、最後には澤村を斬る。人を斬った杢之進はゆうの叫びの中、森の中をさまよい続ける。個人的には、澤村を斬ったことがきっかけとなったのではなく、澤村に最初に斬られた自分の血を見たことで、彼は境目を越えた「越境者」となったのだと思っている。越境した先の世界は狂気だったのかもしれない。塚本監督は「これはハッピーエンドにはならない」と言っていた。人を斬った先にあったものは、嬉しい楽しい新しい世界ではなかった。狂気の世界へと越境した杢之進の姿は何を映し出すのだろうか。私たちも常に境目に立たされる人間であり、理性と狂気は常に隣同士に存在している。理性は己を保つものであり、狂気には理性によって保たれた自分が感知し得ない、文字通り見たことない世界があるのだ。だからこそ人は常に越境した先にある自分の姿を思い浮かべ、憧れ続けるのだろう。そして、誰しもが確実に見えないレベルで狂気に染まっていく。その狭間を私たちは生きている。

 

何はともあれ、塚本晋也監督は本当に人がいいのだと感じた。

こんな柔和なおじさんが…こんな映画を…なぜ…と思わざるを得ないような。

それこそまた、塚本監督が持っている見え隠れする狂気なのだろうな。

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これで今年最後の記事かな。

来年はもっとかこ。