BONNOU THEATER

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~転ぶ我々と踏まれるイエス、沈黙するキチジロー『沈黙 -サイレンス-』~

『沈黙』を観てきた。

予想以上に素晴らしいできだったので、少しレビューを書こうかと。

映画『沈黙-サイレンス-』アメリカ版予告編

 

 

 

▶映画『沈黙』

非常に有名な作家、遠藤周作の『沈黙』が原作のこの映画。

キリシタン弾圧の中でのポルトガル宣教師が抱く信仰への葛藤を描いた、まさしく名著である。特に今更この作品についてあらすじだったり、内容を私の口から語る必要もないだろうと思う。知りたい奴はウィキペディアを見ろ。てか原作を読め。

ただ、特記しておきたいのは、この作品が「半強制的に洗礼を受け、カトリック教徒になり、後に棄教宣言をしている人間」によって描かれたものということである。

キリスト教に挫折した人間の描き出すキリスト教、またはイエス像ということだ。

 

映画は、とにかく日本人役者勢が素晴らしい仕事をしていた。塚本信也演じるモキチが海で殉教するシーンは映画だからこそできる情景の視覚化ができていて、その迫力に胸が押し潰されるような気持ちになった。

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↑ざっぱーん!

また、浅野忠信の役作りもかなり凝っていて、原作にあったようないい人なんじゃないか?だけれども信じれないというキャラクターを見事演じ切っていた。他にも、村人が焼かれてしまうシーンで「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と村人が叫んでいたり、なかなか細かいところまでこだわっているように感じた。

そしてキチジロー。窪塚洋介が出演することは知っていたが、キャスティングなどはまったく頭に入れずに劇場へ行ったので、キチジローとして出てきたときには驚いた。これはちょっとイケメンすぎだろう、と。。もっとキチジローは背がちっこくて汚くて、ねずみ男的なイメージがあったので。。しかしまあ見ていると馴染んでくるような感じがしました。特にあの目力。純粋無垢な目を見ていると、あーキチジロー役に選ばれたのも納得、という感じでした。

 

この映画では、宣教師たちの目の前で切支丹たちがどんどんつかまり、拷問にあっていくというシーンが3時間弱繰り広げられるわけであるが、その間、どれだけ宣教師たちが祈っても神が介在することはない。絶望なまでの「沈黙」が主題となっている。

映画ではあまり明確に描き出されるということはなかったが、原作の最大のクライマックスは、殉教していく信者たちを目にして、最終的に棄教した(転んだ)ロドリゴがキチジローを通して、神の声を聞くところだろう。

「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」

原作を読んだときにこれほど衝撃を受けたことはなかった。

 

▶沈黙する私たち

「沈黙」とはなんなのか。

キリスト教信者は、日々祈り、教会に通い、苦しいときにこそ祈るように言われるだろう。しかし、苦しいときに祈っても神は何も返答しないではないか、という疑問に思って当然のことを投げかけているのである。この問いはおそらく教会で声を大にして言うとかなりの反発を受けてしまうだろう。。。また、この映画でも踏絵を強要されるであろう村人に「踏んでもいい」と言うロドリゴと、「踏んではならない」というガルペの言い争うシーンもある。「沈黙する神」と「踏まれるイエス(またはマリア)」という敬虔なクリスチャンならプンプン怒りそうな内容だ。

しかし、このような疑問が必ずしも出てきながら、「なんとなく」、理由もつけず「なんとなく」スルーしている人間がいかに多いのかということだ。「なぜ神の国はやってこないのか」、「なぜ神はこの場に現れないのか」、このような議論ははるか昔から行われてきた。

※追記:深井氏は不正論文問題があったため、この本もなかなかお勧めしづらくなってしまった…。

 

我々は、神と自分を相対的に見ようとしてしまう。神を人格を持った一個人のように扱い、会話が成立するものとしてしまっている。『沈黙』はこのような意識を持ってしまっている我々に異を唱える。「お前たちと共に苦しんでいたのだ」つまり、「語りかけていただろう」と言っている。相対的に神をみようとする我々は、自分が見ているこの空間、現場に何か特別な力(奇跡)が働くことを常に望んでいるが、そうではなく、「お前たちと共に」、苦しんでいる自分自身、つまり神は他者のように存在しているのではなく、苦しむ自分の中、自分という個人の中に存在している、介在しているということなのだ。私たちはそのことに気付くことができない。神の介在を切望し、待ち望む我々は、己と共に介在していた神を知ることはない。つまり語りかけに「沈黙しているのは『我々』なのではないか」ということを感じるのだ。

 

もう一つ、この作品で欠かすことのできない「転ぶ」。「転ぶ」信者と「踏まれるイエス(マリア)」の重要性である。信仰と教義という信者が貫かなければならない誓いともいうべきルールを捨てるよう強要されるとは、信者にとってどのようなことなのかを想像すると身震いをしてしまう。しかし、遠藤周作は「転ぶ」信者、「イエスを踏む」信者を描くのである。中でも一番印象深いのはキチジローの存在だろう。

 

▶キチジローとは誰なのか(ヨブ記を手がかりに)

f:id:jzzzn:20170212223007p:plainウィリアム・ブレイク

ここから少し怒り混じりなのだが、知り合いの自称クリスチャンが『沈黙』を観たことを某SNSに書き込んでいた。正直その内容に怒りが沸いた。まず、原作を読んだことないのにも驚きだったが、内容がまったく理解できておらず、キチジローに至っては、「キーパーソンだけどダメ人間」と恥ずかしげもなく語る始末。がっかりだ。このような感性でよくものを語れてクリスチャンと自称できるなと。

あの映画を見ていれば、イエスがキチジローを通して最後に語りかけることから、キチジローこそが本物のクリスチャンで、イエスなのだということがわかって当然だろう。最初から最後までロドリゴの側にいて、ロドリゴ自身も「そばにいてくれてありがとう」と語っているではないか。側に居たのはキチジローなんだよ。とここで話は完結してしまう。しかし、もう少し、キチジロー=イエス説というか、そのあたりを考えていきたいと思う。

この映画を観てから、古本屋で買って積読していたユングの『ヨブへの答え』を引っ張り出して読んでいる。

ヨブへの答え

ヨブへの答え

 

 『沈黙』という作品を鑑賞、または読んでいると、どうしても『ヨブ記』が頭の中をよぎる。 

旧約聖書〈12〉ヨブ記 箴言

旧約聖書〈12〉ヨブ記 箴言

 

ヨブ記 - Wikipedia

ヨブ記の内容はウィキペディアに書かれている通り、ヨブという純粋に神を賛美していた人間が、悪魔にそそのかされた神に試され、全てを奪われてしまうというところからはじまる。これがしばしばクリスチャンの間でも議論になる書物なのだ。純粋無垢な人間が突然神によって全てを奪われ、身体を蝕まれていく。ある日突然全てが奪われるという現実を目の前にして私たちが嘆くのと同じで、これをどう解釈するべきかは本当に話しが尽きない。

ヨブ記の最後はヨブvs神の問答が行なわれる。これもなかなかきつい神からの問いかけである。

わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。(38章4節)

お前は海の湧き出るところまで行き着き深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。(38章16〜18節)

この話は、最終的にヨブが神の計画の成就を妨げることはできないのだと悟ることで悔い改める。そして、神はヨブを以前よりも祝福し、ヨブは長寿を保ち、老いて死んでいく。

このようなある種傲慢な神(神の幼児性と言ってもいいかもしれない)を我々はどう理解するべきなのかという問いに、ユングが『ヨブへの答え』で語るヨブ記の見解が非常に興味深いのだ。

ユングは、ヨブ記の神は自分自身が持つ創造という力に酔っていると語る(ヨブ記40章)。 劣等的な意識を持っており、そこに反省や道徳というものは見られない。この物語を通して、神はヨブに道徳的敗北を喫したと言っている。創造主である神が自らの被造物である人間に敗北してしまった、追い越されてしまったということは何を意味するのかというと、神が人間にならなければいけないということなのである。

ヤーヴェは人間にならなければならない、なぜなら彼は人間に不正をなしたからである。(中略)彼の被造物が彼を追い越したからこそ、彼は生まれ変わらなければならないのである。(p.69)

 誰に生まれ変わるのかというと、そう、イエスである。

つまり、神は自分が行った非道徳的な行為に対して、道徳的に上に立った人間に生まれ変わらなければならない。しかし、その人間とは最も罪深いとされる者で、神自身が罪深い者に生まれ変わった。それがイエスということである。また、ユングはイエスには「博愛」という人間的性質があるが、その一方で、怒りっぽさを持っていると語る。つまり、自己反省をしないということだ。しかし、十字架にかけられたとき「わが神、わが神・・・」と叫んでいるところを一つの大きな例外としている。

ここにおいて、すなわち神が死すべき人間を体験し、彼が忠実な僕ヨブに耐え忍ばせたことを経験する瞬間に、彼の人間的な存在は神性を獲得するのである。ここにおいてヨブへの答えが与えられる。(p.73) 

生まれ変わることによってはじめて神が「罪深い人間」を体験し、ヨブが耐え忍んできたことを経験することで、イエス自身が神性を得るというこの一連のヨブから続くイエスの物語を通して感じるものこそ、キチジローなのではと思うのである。

この冒頭に書いた自称クリスチャンの「ダメ人間」というのはちゃんとバラして考えると以上のことなのではないだろうか。イエス自身が罪深い人間として神が生まれ変わったものであり、キチジローは物語を通して「罪深い人間」なのである。彼はユダ的に人を裏切るが、それを無意識的に、トラウマと自己保身の狭間で行ってしまう。そして、それを自覚したときに自己反省と告悔を行うのである。転び続けるのである。

しかし、転び続け、裏切り、そのたびに悔い改める人間の中にイエスはいる。それは、ヨブを通して神が生まれ変わったように、人間を罪深い人間を通してイエスは存在しているのだということである。

つまり、キチジローは私たちであると同時に、イエスが存在しているということなのである。

転び続ける我々と、そのたびに踏まれるイエス、しかしそのような私たちと一緒に苦しんできたではないかという神(イエス)の語りかけが意味するものは想像以上に大きなものなのだ。

 

見ていて思うのは、これは転んだ人間が転んだ人間のために書いたものだなと。

 

踏まれただけで怒り狂う神でたまるかっつーの!

というわけで、素晴らしい映画でした。

 

jzzzn(@bonkuraburain)

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