カナザワ映画祭が終わってから一ヶ月が経った。
全然更新もしてないけど、ひっそりとは続けていこうかと。
今回は、クリスピン・グローヴァーの『It is Fine! EVERYTHING IS FINE.』を見た感想というか、あれを見た時に感じたものを個人的に整理したい。
まずこの作品はカナザワ映画祭オールタイムベストで『ウォーターパワー』と同率で一位というカルト的人気作品。
ロングヘアーフェチのモテモテ障害者が、女性とセックスしたあと殺していくという物語。
簡単に言うとそれだけなんだけど、なんとも内容が詰まりすぎていて一ヶ月ずっとそのことを考えてた。
なんというか、見ている人間が内包している偽善的かつ道徳的に不可侵とされている(している)部分を強制的にズルムケにしてくるような感じ…(わかりづらい)。
上映後、クリスピン・グローヴァーはこの作品の原作者であるスティーブン・C・スチュワートは「障害者」としてこの映画を撮ったのではないと強く語っていた。
「ほうほう」と思うとともにこれが厄介なのだ。
なぜそう思うかというと、クリスピン・グローヴァーが何度もそのようにスティーブンの考えを代弁しているのに、質疑応答で「日本には『24時間テレビ』というものがあって・・・」という話しが出たり、「障害者のスティーブン」というレッテルが自然と僕らの中で出来上がり、それが僕らの視界の前に立ち塞がっているというのを非常に感じた。
また、映画の中で、スティーブンの言語はほとんど聞き取ることができない(「I love you」などの簡単な英語は何とか聞き取れる)。しかし、なぜかスティーブンの言葉を女性が理解していたり、物事がうまく運び過ぎたり、それを目の当たりにしたとき、少なくとも僕の頭の中には「『障害者のスティーブン』によるこれまでのルサンチマンと願望が生み出した妄想」として考えてしまうのだ。
スティーブンがこの映画で表した怒りは、何年も看護施設に入れられ自由を与えられなかったというところから来ているらしい。そこから来るスティーブンの怒りと、我々の目の前に立ちはだかる無意識なレッテルの壁、なんとも距離を感じたりする。
この映画を見た後、辺見庸がここで語っていたことを思い出した。
「病院という閉域は、刑務所や拘置所、学校同様に、人と人の関係性がいわば制度的に偏方向的になりやすい。患者と医師、囚人と看守というように<見る>と<見られる>が不当にはっきりします」(「自分自身への審問」)。
つまり、スティーブンがずっと体験してきたのはこのようなことなのだろう。
そして、映画を通して私たちは自然といろいろな意味で「見る」側となってしまっている。
ここに生まれるズレが言い様のない、ひっかかりを僕の中に残している。
この辺見庸のインタビューの中で、聞き手が「ホモ・サケル」という言葉を出している。
「ホモ・サケル」とは「剥き出しの生」と言われる。
『It is Fine! EVERYTHING IS FINE.』は「剥き出しの生」そのものなのではないだろうか。
また、この映画を見て、昔読んだ本を思い出した。
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新約聖書ヨハネによる福音書は、「はじめに言(ことば)があった」という一文からはじまる。
聖書が真実かどうかは置いといて、言葉が世界の始まりだというのは興味深い。
スティーブンが何を話しているのか、その言葉をは僕たちには聞き取れない。
しかし「言葉」というものは、口から出て空気を振動させて相手の耳に伝わることが前提になっているのではない。
「言葉」は「アート」なのである。
「アート」世界を創る。
つまり「剥き出しの生」そのものなのだ。
僕たちはいつまで「見る」側なのだろうか。
「大丈夫!すべてうまくいく!でも、お前は大丈夫か?」
このように訴えかけられているように感じた。
このような作品に出会えて、僕はとても嬉しく思っている。
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