BONNOU THEATER

ツイッターやってます(@bonkurabrain)。煩悩を上映する場。連絡先:tattoome.bt@gmail.com

2018年印象に残った映画を挙げておく

今年も無事に開けて何より。

しかし、今年の年末年始はバタバタと忙しく、予定も大幅に変更してやっと乗り切ったという感じ。とりあえずは一息。

ツイッターでは、年末から「2018年映画ベスト」的なハッシュタグでいろんなツイートが流れてきて、正直見るのも嫌になるくらいどうでもいい情報ばかり。とか思いつつ、自分も2018年に見た映画の中で印象に残ったものをいくつかピックアップしておきたい。ただ、私は見た映画のタイトルとかをいちいちメモしてないので、何を見たかほとんど覚えていない。なので、何本見たのかもわからないが、本当に印象に残ったものだけ。あと、今年見たものなので、新作だろうが旧作だろうがすべて入れてます。

 

 

いつか上映会をしたい映画

『サウダーヂ』(@石引Public)

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ずっと見たいと思っていた作品。本当に素晴らしいの一言に尽きる。

土方、移民、芸術、表現、田舎、ウィード…。すべてが詰め込まれ、日本の片田舎の姿を浮き彫りにした超傑作。

上映中どことなく、『クーリンチェ少年殺人事件』感を感じていたが、買ってきた雑誌『nobody』のサウダーヂ特集を読むと、監督がエドワード・ヤンのファンであることも発覚し、合点がいった。

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どれだけ日本の映画がゴミのようなもので溢れかえっても、空族がいると思うと本当に救われた気持ちになる。

またちゃんとレビューを書きたい(途中で止まってる)。

『典座』も見たい。

全曹青製作/映画『典座-TENZO-』特報! - YouTube

 

もう二度と見たくない映画

『FLAMES OF WAR Ⅰ & Ⅱ(闘いの炎 Ⅰ & Ⅱ)』(@カナザワ映画祭「世界陰謀論大会」)

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カナザワ映画祭神戸映画資料館で鑑賞。これだけは見ておかなければということで、息巻いていたが、とんでもなかった。イスラムプロパガンダ映画。映画だから作りものだと思う自称シネフィルたちは下のリンクから見れるから見ておけ。

jihadology.net

上映中はあまりの衝撃映像に途中退席する人もいた。

本当は『ラッカは静かに虐殺されている』と併せてレビューしたいのだが、まだ未見のためできていない。

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ただ、衝撃的な映像ばかりでショックを受けることは間違いない。世界ではこんなことが平気で起きている。渋谷で暴れてるばいいじゃないぞ平和ボケした猿どもよ。

 

一人でもう一度見たい映画

これはもう『斬、』(@シネモンド)で確定。

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詳しいことは一つ前の記事で書いているのでそれを見てほしい。

jzzzn.hatenablog.com

 

という感じかな。

印象に残ったものはすべて「越境」がテーマにあった。

『サウダーヂ』はタイへ行きたい日本人、日本へやってきが外国人。

『FLAMES OF WAR』は国境を越え、侵略しようとするイスラム国。

『斬、』は自分の向こう側。

そのあたりが今の自分にはヒットするのかもしれない。

 

ちなみに、

今年見た中でのゴミ

『君の膵臓をたべたい』しかありえない。

こちらも過去に記事を書いているので、詳しくは見てほしい。

jzzzn.hatenablog.com

旅猫リポート』とかいう見た目からわかるゴミ映画も見たかったけど、結局行けず。。。

ソフトが出たら借りて見るか。

 

2019年の目標はゆるっとZINEでも作ろうかなと。何か制作活動をしたい。あと、映画以外の記事も書いていく予定です〜。

『斬、』境目に立たされる

寒くなってきたなあ。

この季節になると菊地成孔の音楽を聴きたくなってくる。

realsound.jp

このインタビューを読んでいると、いかにしてフェティッシュ抜きでフラットな状態で映画について語るのか、素人ながら非常に考えさせられる。そもそも映画をどのような切り口で開いて解剖していくかが問われていて非常に難しい。ちなみに『菊地成孔の欧米休憩タイム』はサインまでしてもらったのに積読状態。年末に読めるかなあ。

 

もうあっという間に年末で、いろいろ記事を書こうと思いつつ、年末の忙しさで、何もできず…。書きかけの記事ばかりが溜まっていってしまい辛い。というわけで、今回も私のフェティッシュにがっつり引っかかった映画の記事を書いておこうかなと。

この間シネモンドで塚本晋也監督の『斬、』を見てきた。これは舞台挨拶付きだったので、絶対に行かねばということで、ここぞとばかりに招待券を使った。

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zan-movie.com

映画の内容は、剣術の腕前はあるが、人を斬ることができない杢之進。幕末の最中、杢之進は「人を斬る」という行為そのものに苦悩と葛藤を覚えていく…といったところか。

youtu.be

今回の舞台挨拶付き上映、何が良かったかというと、塚本晋也監督自らの音響調整タイムがあったため、音が本当に良かった。。巧妙とまで言っていいであろう音の使い方は本当に印象的であった。刀を握ってにじり合う剣客同士の緊張感の中、刀の鞘を握る材質と皮膚のこすれ合うような音、微妙な手の震えからなのか、鳴る刀。私は日本刀を持ったことはないので、本当にあんな音が鳴るのかはわからないし、鳴らないとは思うのだが、映画を見ていると、「刀握ると音が鳴るんじゃね?」という気にさせる。そして、その細かな音がピッタリと映像とマッチして厭〜な緊張感を高めてくれる。手に汗握る、下手をすると死ぬというあの刹那的瞬間を音一つで表現しているのは感服した。

 

音楽もとてもよかった。亡くなってしまったが、石川忠さんって本当にすごいんだな。この間DOMMUNEでも特集組まれてたな。

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上映後の舞台挨拶でも質問されていたが、この映画は幕末を舞台としているのだが、登場人物全員、現在私達が日常で使用している言葉を用いているのも一つのポイントである。塚本監督は、「現代を生きる人が幕末へタイムスリップしたようなものにしたかった」と言っていたが、はじめは違和感があったものの、すんなり入り込むことができた。中村達也が演じる源田瀬左衛門の一行に「私は、都築杢之進です」と自己紹介する場面ではこの純朴な青年の人間性を理解する上ではとてもいいセリフであった。

 

また、一人ひとりの登場人物がしっかりと個性が出ていてよかった。これは後述するが、中村達也のキャラクターは本当に良かった。そして、池松壮亮はもちろんのこと、何よりも蒼井優がすごかった。この個性的な演技をもう本当に独自のものとして確率している感じは圧巻であった。最後の叫びなどもただただ恐れ入った。

 

境目に生きる

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『斬、』公式サイトより

ここまでは映画の表面的な部分での評価であるが、少し内容を掘り下げておきたい。

武士としての自分を確立したいと願う杢之進は、人を斬った経験がないことが発覚する。澤村(塚本晋也)は杢之進に人を斬るように(最終的には自分を斬るように)仕向ける。

この映画の根底に流れているテーマは「越境」だと感じている。

「越境」とは、あまたの映画の中で描かれる「イニシエーション」にも近いものかもしれないが、ここではこの2つの言葉は明確に分けておきたい。「イニシエーション」とは「通過儀礼」であって、子供である個人がある事象をきっかけに、大人へと近づいていく現象として理解されていることが多い。しかし、ここで使用する「越境」とは「イニシエーション」という言葉だけではなく、文字通り「crossing the border 境目を越える(てくる)」者たちという意味も含み、それらを包括してものとして使用していきたい。そして、この映画に関して言うと、様々な角度でこの「越境」が描かれる。

その中でもまずひとつ挙げられるのは、源田瀬左衛門の存在だろう。源田を演じている中村達也は本当に厭〜な役をやっていてびっくりした。なんとも言い難いあの厭な感じは誰しもが既視感を持っただろうに。例えるなら、コンビニの前でしゃがんでたむろしているヤンチャな集団、こっちから仕掛けなければ何もしてこないが、何かのきっかけで突っかかってきそうな感じ。でも何がきっかけになるかわからないから、触れないに越したことはないというとてつもなく厄介な存在。『斬、』のパンフレットでは映画評論家の森直人が彼らのことをヨソモノ(移民)と書いており、庶民―権力―ヨソモノという3つの点でこの世界観を捉えていた。((『世界を覆う「負の連鎖」と原型的な暴力の縮図―「鉄男」の反転、「野火」の続篇』、『斬、』パンフレットよりその通りである。彼らは間違いなく「越境(してくる)者」なのである。境目を越えてやってくる者だ。そんな彼らに対し、杢之進は彼らと酒を飲み交わし、彼らがこれまでやってきた行いの話を笑いながら聞く。源田たちがやってきたことは、「やられたらやり返す」というものだが、「そこまでやらなくてもよくない…?」というものばかり、はたから見ると蛮行である。しかし、杢之進はその話を聞きながら笑っている。ここの時点で杢之進の持つ危なさがうっすらと見えてくる。杢之進は「越境する者」でも「越境してくる者」でもなく、「境目に立つ者」なのだ。庶民と権力の境目に立つ者、ヨソモノの境目に立つ者、庶民とヨソモノの境目に立つ者であるのだ。つまり、何か(簡単な)きっかけさえあれば杢之進は簡単に境目を越えてしまう危なっかしさを感じるのだ。

澤村の登場により、杢之進は人を斬るという行為に葛藤する。刀一本で人の命を簡単に奪うことができる現実と、誰かを大切にしたいという現実。この映画は、「暴」と「性」が対比的、あるいは同じベクトルで描かれている。杢之進はゆうに対して特別な感情を抱いてはいるが、決して交わることはない(家屋の木目から指をなめたりなどのメタファー的描写はある)。また、どれだけ残酷な状況を目の前にしても人を斬ることができない杢之進(剣術の訓練などは怠らない)。本番行為はできないが、練習はしっかりしている。杢之進童貞説というか、「杢之進ED説」だろうな。

「私も人を斬れるようになりたい」と杢之進が繰り返し言う場面では境目に立つ者の葛藤を表している。人はいろいろな境目に立たされている。まだ見ぬ未知の世界への憧れ。しかし、その境目を越えることの怖さ。自分が自分でなくなるのではないかという恐怖感。これは「人を斬る」ということに限ったことではなく、現代を生きる私たちも日常で問われ続けることである。あまりいい例が思いつかないのだが、童貞を捨てるという行為や、ドラッグへの憧れ、など私たちの理性がギリギリのラインで働く部分にといての葛藤があるはずである。自分が保てるのかどうかというギリギリのラインにおいて、人間は葛藤し、その先にある自分の姿を想像し、憧れ、恐怖する。杢之進は残酷な現実に直面させられ、最後には澤村を斬る。人を斬った杢之進はゆうの叫びの中、森の中をさまよい続ける。個人的には、澤村を斬ったことがきっかけとなったのではなく、澤村に最初に斬られた自分の血を見たことで、彼は境目を越えた「越境者」となったのだと思っている。越境した先の世界は狂気だったのかもしれない。塚本監督は「これはハッピーエンドにはならない」と言っていた。人を斬った先にあったものは、嬉しい楽しい新しい世界ではなかった。狂気の世界へと越境した杢之進の姿は何を映し出すのだろうか。私たちも常に境目に立たされる人間であり、理性と狂気は常に隣同士に存在している。理性は己を保つものであり、狂気には理性によって保たれた自分が感知し得ない、文字通り見たことない世界があるのだ。だからこそ人は常に越境した先にある自分の姿を思い浮かべ、憧れ続けるのだろう。そして、誰しもが確実に見えないレベルで狂気に染まっていく。その狭間を私たちは生きている。

 

何はともあれ、塚本晋也監督は本当に人がいいのだと感じた。

こんな柔和なおじさんが…こんな映画を…なぜ…と思わざるを得ないような。

それこそまた、塚本監督が持っている見え隠れする狂気なのだろうな。

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これで今年最後の記事かな。

来年はもっとかこ。

ZINE作りを考え始めた

ここ最近、もっとアウトプットできるものはないかと考えているのだが、このブログの記事とかも交えつつ、ZINEでも制作しようかと思い始めた。

ただ、コンセプトがなあ。

映画レビューをダラダラ書いてるだけのZINEとか手に取ってもらえなそうだしなあ〜…。

どうすべきか。

世界カンニング大全!『バッド・ジーニアス』

この記事を読んでいる人たちはカンニングに手を染めたことがあるだろうか?

私はある。

これ以上は言わないが、それも幼いときばかりではない。

みなさんはカンニングしたことがあるだろうか。

 

そんなあなたにオススメな映画『バッド・ジーニアス』。

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https://eiga.com/movie/88464/より引用

タイ産の映画だ。

エリート学生の主人公が友人のためにテストの答案を見せたことから、カンニングをさせることで金銭の授受をしていくという物語。熱かった。

Yahoo!映画では、「カンニング版ミッションインポッシブル」と言われていたりも。糞映画レビューサイトにしてはなかなか面白い言い方をする。

 

驚きだったのは、タイもアジア諸国同様受験戦争があり、学力至上主義の流れになってきているんだなあと言うこと。消しゴムに答えを書くことから始まった不正行為がピアノの鍵盤を弾くモールス信号、時差を利用したものなどに発展していき、多少勢いで押し切ったような映画ではあったが、落としどころもよかったように思う。

日本でもセンター試験の時期になるとちょくちょくカンニングの事件が話題になることもある。記憶に新しいのはaicezukiによる大学入試不正事件だ。国内で初めて発覚した携帯を使ったカンニング事件として、私も衝撃を受けた覚えがある。しかも大胆にも試験中にスマホを打って、あの日本の掃き溜めとして名高い(自分でそう呼んでいるだけだが)Yahoo!知恵袋に投稿するという荒業で…。犯人は当時仙台に住んでいた予備校生らしいが、今思うと、履歴やIPアドレスから一発特定される方法を選ぶあたり、なかなか切羽詰っていたかよほどアホなのか…。

大学入試問題ネット投稿事件 - Wikipedia

まあスポーツと一緒で向き不向きが人間にはあって、勉強にも向き不向きがあるんだよな。ただ、悲しいことにこの世界は勉強で戦っていかなければならない世の中。自分は与えられたカードでどう戦っていくのかということなのよ。カンニングにも向き不向きがあるだろうけど。

今回の映画はタイ、インド映画の『きっと、うまくいく』などでもインドの教育問題などが取り上げられていた。韓国も受験戦争がとてつもないということをよく聞く。それくらい現在のアジア諸国では、入試が激化しているということだろう。ということは、一定層、カンニングを実行しようという人間がいてもおかしくはない。そういうわけで、世界のカンニング事情について少し調べてみた。

 

まずインド!

www.huffingtonpost.jp

さすが教育大国。集団カンニングというインパクトよ。これはもはや個人のカンニングに留まらず、家族ぐるみ、というかもはやカンニングの領域を超越しているようにさえ思える。『万引き家族』もビックリだろう。しかしまあ、ここまでしなければならないインド社会自体に問題があるようにも感じる。

 

次に中国!

www.businessinsider.jp

gigazine.net

いろいろとやべえ。。。こういうデバイスを受験生が開発しているとは考えにくい。まあ現実的に考えると、こういうのを作っている人間がいるってことだよな。カンニングビジネスが蔓延っているということだろう。カンニングを生業としたマフィアみたいなのも存在しているんだろうな。ただ、一度でいいから、こういうのを使ってみたい。名探偵コナン感というかひみつ道具感がいい。

 

アジアばかりではなく、ヨーロッパも!

ということで個人的に詐欺師イメージの強いイタリア!

タダ乗り&万引き常習犯?私が出会った悪いイタリア人の行動5パターン

(なぜか埋め込めない)

ううむ。カンニングに関してはなかなかかわいいもんだな。ジェラートに唾入れるというどうしようもない行為についての方が気になったぞ。イタリアに行ったときはジェラートは食わねえ。

 

カザフスタンでは11メートルのカンニングペーパーを仕込んでいたのがバレたというニュース!世界にはまだまだとんでもない猛者が潜んでいる…!

irorio.jp

 

その他、さまざまなカンニング方法を探してみるとおもしろい。

matomake.com

女の太ももにカンニングペーパーしこまれたらもう何も手立てはないな。セクハラだなんだと騒がれる今こそこの方法を使うしかないのでは。東京医科大を今年受ける予定の女性には一番オススメの方法だ。

『バッド・ジーニアス』では鉛筆のバーコードを使ってカンニングを行うというものもあったが、飲み物のラベルとかもなかなかよさそう。ただ、手間とコストを考えると割に合わないか。

 

このサイトもいろいろなカンニング方法を紹介しているが、基本「バレます」と書かれててなかなか面白い。

ameblo.jp

 

やはり世界は広い。そして世界各国で今もカンニングをしようとしのぎを削っている猛者たちがいる。それくらい彼ら、彼女らにとって受験というものは将来食えるか食えないかに直結しているということだろう。適当に受験して、ろくに勉強もせず、女をレイプするような脳味噌しか持たなくなった産業廃棄物のような学生がいる国とは根本的に違うんだよな。

『バッド・ジーニアス』の話に戻ろう。これは厳密に言うとカンニングとは少し違う。エリートが金稼ぎのため、解答をどう周囲の人間に伝えていくかという映画である。カンニングはわからない問題に直面した自分が、仕込んだものを使っていかにその問題を解決していくかという構造である。その点で言うと、この映画を「カンニング映画」とくくってしまうのはいささか乱暴であるような気がする(「チーティング映画」あたりが妥当なネーミングか?)。この映画で印象的だったのは、超エリートの主人公が自分のことを「負け犬」と呼んでいることだった。いくら勉強ができたってお金がなければ何もできない。考えてもみると、幼少期はスポーツができるやつがモテる。それがだんだんと勉強ができるやつがモテるようになり、学歴社会の波に全員が飲まれていく。そして最終的には金があるやつがモテるようになっていく。先程、勉強には向き不向きがあって、与えられたカードで私達は生き抜かなければならないと言ったが、この映画はその構造そのものにもNOと言っている。与えられたカードでいかに金を稼ぐか、いかにしてメイクマネーしていくか。自分を理解して、自分を最大限活かして、金を生み出す。これは自己プロデュース映画なのだと感じる。そして、その現実はとてつもなく悲しい、だからこそ応援したくなる。

 

そもそもなぜカンニングは悪なんだ?

フェアじゃないから?ずるいから?

くそくらえー

 

与えられたカードで勝負しなければいけないこの世の中。どのカードを切るかは私たちが決めることだ。

そして全ては以下のセリフに集約される。

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ジョジョの奇妙な冒険 第3部

日常へ回帰するということ『ムーミン谷の彗星』

金沢は春から秋にかけて毎週イベントをやっているのが良い。

まあしょぼいのから雰囲気が素敵なものまでさまざまである。

この間の土日には「秋の空」というイベントが開催されており、いろいろなテントで、金沢にあるおしゃれショップたちが出店していた。その中の一角で『ムーミン谷の彗星』が上映されるという情報を聞きつけたので、これは行かなければと向かったわけだ。字幕で鑑賞しようとしていたのだが、会場に着いてみると「すみません。すべて吹き替えでの上映になりました。」と言われ、残念な気持ちではあったが、そのまま場内へ。

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中は子連れが多く、それに混ざって俺を含めたおっさんたちがポツポツと…。

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金沢もすっかり秋だ。

 

ムーミン谷の彗星』は2010年に作られたパペットアニメーション

『劇場版 ムーミン谷の彗星 パペット・アニメーション』オフィシャル・サイト

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割と最近の作品なんだな。オープニングではビョークの歌声とネズミだかなんだかのアニメーションが不穏かつ神秘的な雰囲気を漂わせながら戯れる様が流れる。始まってみると、驚いた。知っているムーミンの声ではないだろうから字幕にするつもりだったが、俺の知っているムーミンたちの声ではないか!!!『楽しいムーミン一家』の声優たちだったのだ。始まった瞬間これだけで俺は大満足。

 

内容は、とてもシンプル。彗星が地球に落ちてくるので、それを調べに冒険に行くという話。終末を迎えるということがテーマである。だが、さすがムーミン、一筋縄ではいかない、というか頭おかしいやつしかいないってのが最高。

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パペットアニメーションとかって色合いとか雰囲気が荒廃した不気味な感じになるんだよな。NHKのパペット系のものも幼少期は怖い感じがして苦手だった。朝、ムーミンが起きると外は灰色の世界になっていた。これについては、トーベヤンソンが原爆を意識したのではないかという話もあるらしい。原因を探るためにジャコウネズミさんのところへ話を聞きに行くと、地球に彗星がぶつかるという衝撃発言がなされる。そのあと哲学者であるジャコウネズミは本を読んだままムーミンの家に入ってきて朝っぱらから、他人の家で飯にありつく始末。それだけならまだしもウダウダと持論を語って帰宅。

その後、ムーミンとスニフはイカダをつくって冒険に出る。途中でスナフキンたちと出会っていく。スナフキンはいちいち台詞がかっこいい。ただ、このスニフとかいうネズミ、かなりの曲者で、基本不平しか言わない。「もうこりごりだ」、「山なんて一生見たくない」、「だから言ったんだ!」など一緒にいたら即絶縁レベルの発言をポンポン放り込んでくる。山を歩いているとき、スニフは運んでいるスナフキンのテントが重いと言い出し、それを聞いたスナフキンは「捨てていこう」と提案する。さすがスナフキン。物質主義からの脱却!しかし、それに対してスニフは「もったいない、いらないならくれ」と言い出す始末。お前、運べないんだろ?

ムーミンも相変わらず、夢中になると周りがまったく見えなくなる特性も健在で、「石を崖から落とすだけ」という狂気じみたゲームに没頭し、スナフキンの忠告を無視して崖から落下。最高な突っ込みどころしかない。もはや愛おしい。

終盤、お店に立ち寄るシーンでは、スニフは到着後即レモン水を注文しがぶ飲み。スナフキンはなぜかズボンを購入。ムーミンスノークのお嬢さんの登場により、下半身でしか物事を考えれなくなっており、贈り物の鏡を購入。スノークのお嬢さんはムーミンをたぶらかすためのバッヂを購入。スノークはノート…とみんなそれぞれ買い物をするが、散々店を物色した挙句、お金を持っていないことに気付く。みんなは購入を諦めれば済むが、スニフはレモン水を無銭飲食。やっちまったなスニフ。お前のそういうところだぞ。ここでスニフはレモン水の代金バイトをしながら、彗星が落下して死ぬのかあと思っていると、常識人スナフキンは謝罪と共にズボンを返す。店主のおばさんもしっかり頭が逝っており、「ズボンを返してくれた代金でみんなが買ったものの代金が賄えるわ!毎度あり!」と明らかに何か患っているであろう発言…。怖い。さすがに登場人物全員ドン引き。しかし、これはチャンスとばかりに購入した物品を持って店を出る。

家に帰ってくると、ムーミンママが「ムーミン」と書かれたケーキを作って待っていてくれた。居候のスニフはブチギレ。いやいや…と思っていると、スニフの過去を見てみると何も言えなくなる。スニフ…お前のトラウマを知らなくてごめんな…。そりゃあ卑屈にもなるよな…。

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ただ、ジャコウネズミさんはそのケーキを背もたれにして寝そべっているという狂気っぷり。

 

そして、彗星は谷に落ちず、尾がかすって過ぎ去っていった。過ぎ去っていったあとに、

ムーミンたちはこの世界がどれほど愛おしいか考えていました」

というナレーションが流れ、

「家に帰ってジャムをパンケーキに塗って食べた」

と締められる。

 

「終末がやってくる」というこの世の終わりに、私たちは何をすべきなのだろうかという問いかけである。この物語で面白いなと思うのは、4日後には彗星が落ちてくるのにこいつら全然寝るし、寄り道ばっかするんだよな。世界を愛するというのはなかなかに難しい、更にいうと、日常を愛するなんて到底できない。ムーミン一家は終末がやってくるのに何もしない。お茶を飲んでケーキを食べるだけだ。そして、終末が来なかった彼らは、お茶を飲んでパンケーキを楽しむのだ。ただ、終末がくる日常と終末がこなかった日常、両方とも特別でありながらも違った意味を持つ。日常は常に特別だ。このまま毎日働いて何の目標もなく、社会の歯車となっていくのかと思うとどうにもやりきれなくなる映画だったな。多分今の世界に終わりが来るのなら、同じような生活はしないだろう。ムーミンたちは何もしない、何者でもない。何者かにならなければいけないのが、現代社会だ。何もしない、気ままな日常は世界を愛するということなのだろう。

俺もムーミンパパのような破天荒人生を歩んで、終わりなき興奮に満ちた経験が必要か。

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ムーミンのもう1ついいところは、明らかに頭がどうにかしちゃっているキャラクターしか出てこないのにみんながそれを許しているところだ。許しているというか、お前はそれでいいじゃん!それがおまえじゃん!という意識が全員にあるということだ。俺がもしスニフと一緒に旅行でも行こうものなら、初日でボコボコにしている。それでも、みんなはちゃんと相手を理解している。そういうところもいいよね。

 

余談だが、終末がやってくるときに、イナゴが大量発生したり、海が枯れたりっていう全世界共通の鉄板物語が出てくるのもよかった。

 

このブログも面白かった。

「劇場版 ムーミン谷の彗星 パペットアニメーション (2010)」世界の終わり。ムーミン谷の攻防🌠 - gock221B

 

日常の愛おしさを再確認する物語であるとともに、突っ込みどころ満載、またムーミンに会えた!という再会が体験できただけでもかなりいい作品であった。DVD買いだなこりゃ。

 

新装版 ムーミン谷の彗星 (講談社文庫)

新装版 ムーミン谷の彗星 (講談社文庫)

 

 

※映画の写真は全てhttp://moomin-suisei.comより引用しました。

sleep is the cousin of death的世界『アイズワイドシャット』

グーグルアドセンスに登録するために意地でも20記事書こうと企んでいる。

広告収入で暮らしてえ。まあ月間PV数とかも大した数ではないが。

てなわけで最近また記事を書いたりしているのだが、どうしてもまとまらん。散文的なものになってしまう。そんな中ではあるが、今回は私の大好きな映画、『アイズワイドシャット』について書こうかなと。

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人生で初めてキューブリックの作品を観たのはいつごろだっけな。高校生になったタイミングくらいかもしれん。映画に興味を持ち、町山のアメリカ映画特電とか、小島慶子のキラキラとかを聴きはじめた時期だったと思う。『時計じかけのオレンジ』を借りてきて見た記憶がある。記憶としては断片的ではあるが、正直あまりに印象が強すぎて覚えていないような感じだ。映画初心者の自分には難解すぎた気もする。数年前に初めて『2001年宇宙の旅』を観たが、これもまた強烈に印象に残るという感じもなく、仕事後に見たので、冒頭から眠気が一気に襲ってきたのを覚えている。

自分とキューブリックはそこまで相性がいいわけではないと理解しつつ、『アイズワイドシャット』を観たら、これだけは私の脳裏に文字通り「焼きつく」ような衝撃を受けた。

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こういうシーンもいちいちかっこいい。

まずオープニングから流れる曲がかっこいいんだよな。

 www.youtube.com

あらすじはウィキペディアなりなんなりをチェックしてほしい。

アイズ ワイド シャット - Wikipedia

おおまかには、医者であるビルが妻からの告白を聞かされて、ショックから夜の街を徘徊する…という話。*1

 

一言で言うなら「大人の不思議の国のアリス」。*2

もっと雑な言い方をするなら、「寸止め映画」。

常に一発かましてやろうと思っていると邪魔が入る。

 

この映画で何について書こうかめちゃくちゃ迷っているのだが、「現実と幻想は紙一重」ということが1つ挙げられるのではないかと思う。*3

この映画で面白いのは、会話の応酬である。

誰かが発した質問をそのまま主語を入れ替えて会話をするというのが印象に残る。ビルが街を徘徊中にドミノに誘われるシーンでは、“come inside with me”というドミノに対してビルが“ come inside with you ”と返す。「自分」「あなた」という確認をするような場面が散見される。現実なのか幻想だったのかわからない世界で、自分がここにいて、相手も存在しているということを確認しながら物語が進んでいるような印象を受ける。しかし、物語が進むにつれて、他者と自分が存在しているという世界は簡単に壊れてしまう。存在していたはずの「あなた」が存在していたのかさえわからない。「自分」と「あなた」という相対的な視点で見ていた世界から、「あなた」が消失することによって、「自分」という存在さえ危ういものになってしまう。いともあっさり崩れてしまう「自分」とは一体何なのかというものを取り戻していく話であると私は認識している。

 

今回この記事を書くにあたって、この映画についてのレビューや論文などを漁っていたのだが、この論文はめちゃくちゃ面白かったので、一読をオススメする。

「盲目のビル―スタンリー・キューブリック、『アイズ ワイド シャット』(1999)における音の策略―」小林徹、群馬大学社会情報学部研究論集第14巻、2007

https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/1406/1/GJOHO03.pdf

この論文では、ビルは「見る」ことに異常に執着がある視覚人間で、一方妻であるアリスは「見る」ことではなく「聴く」ことを重視している聴覚人間ということが書かれている。

マンディが混濁しているシーンで自分を「見る」ように話しかけ、貸衣装屋では自分のIDを「見る」ように言い、サマートン屋敷では謎の女の仮面の下を「見よう」とし、最後には多くの仮面人間たちから「見られる」。

なるほど、この映画は「見る」ということについて非常に重要なヒントを投げかけているように感じる。そこに注目してみると新たな発見もある。

この論文では言及されていないが、興味深いのは、ビルが夜の街を徘徊しだす理由は、妻が旅行先で目が合っただけの海軍士官となら抱かれてもよかったという発言をしたところからである。しかし、その現場をビルは「見ていない」。想像の中で映像化し、「見よう」としているのだ。「見ていない」ものを事実として「見よう」としている。ビルは「見る」ことで現実を生きるが、「見ていない」ものにその現実が振り回されていく。物語の後半では、「見た」ものが果たして本当にあったことなのかがわからなくなってしまうのだ。「見る」ことで現実世界を生きてきたビルが「見ていなかったのかもしれない」という世界の不安定さ・不確実さに直面させられ、現実と幻想の境目が交錯してしまうのである。前述の「あなた」「わたし」の不確実さによって崩れ去る世界は、「見る」ことによる認識からはじまるため同じ文脈として語ることができる。

ただ、この「見る」ことに執着していた人間が「見ていないもの」に自分の存在、相手の存在そのものを揺るがされてしまうということは、いかに現実世界と幻想世界が紙一重であるのかということが伝わってくる。幻想の中に生きる人の現実は幻想なのである。現実に生きる人にとって幻想は幻想なのである。私たちはどちらに立っているのだろうか。

この世界は常に不確実なものである。完全ではない。必ずどこかでバグが生じる。あいつの現実と私の現実は違う。しかしどちらも現実である。また、どちらも幻想である。

自分の話になってしまうが、この間30前後の年齢にして立てないぐらいベロベロに酔ってしまった。寝ながら吐きまくっているときに、自分の頭の中にはよくわからない女性の声が繰り返し鳴り響いていた。これは現実なのか?という状況に立たされ、目が覚めてから、前日までの自分の現実と、今自分が見ている現実は同じ世界なのだろうかという思いがずっと抜けないままでいる。それくらい現実というものや自分という存在はあいまいなものだ。

 

この映画のラストでは、ビルがアリスにこの先どうすればいいかと問う。

アリス「大事なことは私たちは今目が覚めている。そしてこれからも一緒にいる。」

ビル「永遠に。」

アリス「永遠と言う言葉は嫌いよ。」

というやり取りがある。永遠は幻想なのだ。

そのあとアリスは「私たちはすぐにやらなければいけないことがある。」と言い、

“Fuck”

と一言言ってエンドロールに入る。

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ビルが見た世界ではFuckは存在しなかった(できなかった)。ビルの想像の世界でもアリスがFuckしていたのかはわからない。アリスが最後に投げかけるこの言葉は、現実世界とビルを再びつなぎとめるための言葉なのだ。

 

ラッパーのNasは“sleep is the cousin of death”と言っていた。

「睡眠は死のいとこ」*4

同じくらい現実と幻想の境目は曖昧なのである。

私達はそんな世界の中で生きている。

“EYES WIDE SHUT”

目を開くことを目を閉じることはあまり変わらないのかもしれない。

*1:このあたりも以前書いた記事に通じるものがある。

jzzzn.hatenablog.com

そもそも「人妻」である自分のパートナーは浮気なんてするはずがない、という役割の押し付け自体がすべての始まりであり、元凶である。

*2:この部分については町山智浩も伊集院のラジオで言っているのを聞いた。

www.youtube.com

ただ、町山智浩のこのところの歯切れの悪さというか、昔まであった熱さはどこに行ってしまったのか。最近の評論を聞いてもぱっとしないものが多い。昔花見とかにも参加してサインとかもらってたんだけどなあ。愛人騒動や進撃の巨人騒動のあたりから雲行きは怪しかったけど、もう私を熱狂させるものではなくなってしまったな。

*3:THA BLUE HERBの『SHOCK-SHINEの乱』では「真実と幻覚は紙一重」とも言われていたな。脚注にする意味もあまりないが思い出したので…。

*4:Nipps

【雑考】文化や文脈の欠落の先にあるものは

私はすでに地元と言ってもいいであろう川崎を離れて4年になる。

私が住んでいた当時から「カワハロ」なるものは開催されていたが、参加したり、見に行ったりしたこともなかった。

こっちに越してきてから、LIP’Sプレゼンツ『ロッキーホラーショー』が上演されていたことを知った(復活オメデトウ!)。

jzzzn.hatenablog.com

最近ツイッターのタイムラインには、渋谷で仮装した人間たちが暴れまわっている映像が流れてくる。軽トラを倒し、警察を挑発し、酒もあってか自分は強くなったと力を誇示しようと見せつける。

www.huffingtonpost.jp

おまえら普段どれだけ抑圧されているんだ?

egiptianslave

 

 

 

 

 

 

 

 

まあこの件についてもごちゃごちゃ言うつもりはないのだが、こういうイベントに対して、「もともとこのイベントの起源は~…」とかのたまうのもまた老害感があって辟易するが、近年このようなイベントに対する文脈の欠如はいかがなものなのかと思うのだ。

 

思想的植民地というか、文脈がなさすぎる。文化の欠如と言ってもいいのではないか。

そこには背景というものを考えなければならないが、すべて都合のいいところだけかすめ取っていって何が大切なのかが全く分からんまま終わるというのがほとんどだ。*1

日本における宗教も、文学も、文化も、芸術もすべてそうだ。わかりやすいものしか受け入れることができなくなっている。

 

「欧米思想」というものに影響を受けているのではない。「欧米思想」を理解できないから、「おもしろい」という猿と同じような思考回路でしか物事を考えれなくなっている。

それは洗脳と同義だろ。思想的植民地状態。

日本はあまりにもそういう傾向が強すぎる。骨抜きにされすぎ。

まさしくこの通りだ。

もっと思想を持て。牙を磨け。

渋谷で自分は強くなったかと思っていたとしてもそれは支配の中で行われているのだ。

 

雑考。

*1:

話は逸れるが、日本の性教育だって同じだ。何も大切なことは教えやしない。

そもそもセックスについてだとか、妊娠したらどうするべきか、流産したときの対応は、その後どうしていくべきかなど。「セックス=恥ずかしいこと」みたいな意識が重要な部分を欠落させている。また、日本は不十分ではありつつも、理系に力を注ぎすぎている。「理系なら就職に強い」といったような、またもわかりやすい図式しか見せようとしない。文系については更に不当な扱いしかしていない。「学んで何になるの」、「将来役に立つの」とか糞の役にも立たない返答しか返ってこない。ノーベル文学賞村上春樹が話題になったりだの、全然日本とは関係ないカズオ・イシグロがもてはやされたりするだけだろ。もてはやす輩はそもそも読んだのか?