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ツイッターやってます(@bonkurabrain)。映画。映画は体験であって、映画が不謹慎で何が悪いが。本、映画、宗教の話が好き。

「問いかけ」への「答え」なのか?『ブレードランナー2049』

ブレードランナー2049』を見てきた。


映画『ブレードランナー 2049』予告

 

監督は『メッセージ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ


映画「メッセージ」予告編

『メッセージ』は個人的には結構楽しく鑑賞することができた。

静かな雰囲気の中に哲学的な内容を入れてくるというふんわりした感じ。

今回同監督が『ブレードランナー』の新作を監督するということで、聞いたときは『メッセージ』の雰囲気の監督が『ブレードランナー』を作るのか…?

期待と不安が入り混じりながら鑑賞。

不安通りでした。

 

世界観や設定はとてもよかった。『ブレードランナー』の世界をよく理解した監督が作ったんだなあと。

しかし、このもやもやは何なのだろうか。

 

今月の『映画秘宝』で柳下毅一郎氏が、

ブレードランナー』は答えではなく問いかけだった。*1

と書いていた。

  (今月号の表紙は熱い!!)

俺たちはみんな『ブレードランナー』に胸を熱くされ、その提示された問いに苦悩し、考え抜いてきたではないか!!!

 

しかし、今回の『ブレードランナー2049』は何を問いかけていたのだろうか。

というのが最大の疑問。

 

ブレードランナー』は人間とレプリカントの境界、その危うさ、宗教性、己の問い直しであった。

また、その宗教的要素は本当に感心した(宗教を持ち込むなという人間もいるだろうが)。

canalize.jp

(このブログは、『ブレードランナー』のキリスト教的視点についてすごく詳しく書かれててとてもよかった。)

 

ブレードランナー2049』の設定はレプリカントが差別を受けながらも人間と同じ仕事をする時代が到来していた。主人公がレプリカントであると明言されているのは観客にも新たな視点を持たせるという点で面白かった。人間のレプリカが己とは何かを考え、自分は特別な存在なのではないかと自問し、希望を見出していこうとするのはよかった。

しかし、イエス・キリスト(救い主)の誕生をモチーフにはしているのだろうが、なんだかそれもしっくりこない。レプリカント反乱軍(こいつらは何がしたいの?)はレプリカントが受胎し、新たな生命が誕生したことに神性を見出そうとしているのは何なのか。人間とレプリカの垣根を越えるものは「受胎」なのか?そして主人公の気持ちを真っ二つにするように、それは女でした。しかも何の苦労もしていない隔離された夢デザイナーとして活動していました。みたいな展開は何なのか。ガフが折る羊は何なのか。さしずめ、迷える子羊、1匹の羊を連想させるものなのだろうが。

 

なんか優等生すぎるんだよヴィルヌーヴ。うまくまとめようとしすぎ。

 

ここからは個人的なダメ出し。

・ホログラムの都合のいい女感は何なんだ。今で言うと二次元を愛するオタクの夢を現実に叶える画期的なシステムなのだろうが、無条件で自分を愛してくれる女性をそこまで求めてんのか。知り合った女とホログラムを重ねてセックスをするのは正直見てて無になるしかなかった。

・妊娠すりゃあ人間なのか?じゃあ妊娠できない人間は欠陥なのか?

・孤児院行くとき車ぶっ壊されたのにどうやって帰った。徒歩か?

・あの無能警察上司女は何なんだ。自分の部下の状態が正常でないと知っておきながら、部下が「目標は殺した」とか言ってるのを何の証拠も根拠も聞きも確認もしないで納得してしまうのはお前のほうが正常じゃないだろとしか思わなかった。

レプリカントが差別されてる世界が最初にだけしかよくわからず、ウォレス社のラブの身体能力とか強さは何なのアレ。平気でかかと落とし食らわせたり、首元へのチョップで人間殺してたぞ。あんなの怖くて差別とかできねーよ。こいつはレプリカントとしての葛藤はないの?

・何の前触れもなく、デッカードに娘に会わせてやるとか言って、あの夢デザイナーが娘だってなったのかが全くわからなかったんだけど、みんな気付いたの?というかあの施設何?警備とかいなくて一人でいるの?

・ウォレス、てめーの最初の袴は何だよ。

 

何度も言うけど『ブレードランナー』としての雰囲気は申し分なかった。

ただ、『ブレードランナー』には「見えないもの、自分を超越している何か、しかしそれが一体何なのか、救いとは何なのか」そこにある人間とレプリカのあやふやさという大きな問いかけが故意であったのかはわからないが、見ている側には投げかけられていた。

ブレードランナー2049』はその超越したものがすべて人間の手の中に入ってしまったような感じ。だからそこには想像の余地もなかった。だから、最終的には主人公の苦悩はどう昇華されたのかわからないし、感情移入はできなかった。『ブレードランナー』は最終的にはレプリカントに感情移入できたじゃないか。レプリカントとしての儚さみたいなものはどこにいったのか(俺たちのロイ・バッディの思いを返してくれ!!)。

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http://namonaiblog.blog.fc2.com/blog-entry-6.htmlより

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https://source.superherostuff.com/movies/blade-runner-sequel-receives-official-release-date/より

だけれども、よくわかんないけど、なんかとても綺麗な答えが提示されちゃった感じ。

「自分は特別じゃなくても、特別な者の役に立つことができるからこそ特別なのだよ」

みたいな。

 

なんか、学生時代によく俺を捕まえては、「最近何か深いこと考えてる?」とか「幸せって何だと思う?俺はもう答え見つけたけどね。」とかほざいてた年上の糞みたいな先輩を思い出す映画だった。

 

優等生が深いぶってるだけでハリボテの映画。

 

俺が見たいのはSFじゃなくて、哲学SFなんだよ!

人間vsレプリカントに焦点を当てないでくれ。

 

「あぁ、こんなのあったなぁ」で済む映画になればいいけど、あの袴男生きてるし何も解決してないから、続編作る気満々だよなあこれ。。。

*1:映画秘宝』2017年12月号

『ウォーターパワー』はなぜこれほどまでに私たちを魅了するのか

お久しぶりです。

 

今年は各地で開催されているカナザワ映画祭

残すところあとは仙台の「あなーきー・いん・ざ・にっぽん」のみとなった。

行けないのは本当に悔しい。

 

先日京都みなみ会館で行われた「エロス+猟奇」で再び上映されることとなった「ウォーターパワー」について今回も書こうと思う。

 

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私も昨年のカナザワ映画祭で衝撃を受けた一作でもある。衝撃のあまり、当ブログにも浣腸についてフィーチャーした記事を書いてしまったほどだ(その記事がこのブログのアクセス数で一番多いのは何とも言えないが)。

jzzzn.hatenablog.com

今回も必ず見なければという使命感から、猛女オールナイトで精神的にヤラれ(早朝ディープ・スロートの破壊力で)、とうとう3日目の真っ昼間浣腸劇を鑑賞するに至った。

今回、何がすごかったかというと、私が席について上映を待っていると隣にあのセーラー服おじさんが座ってくれたということだ…!セーラー服おじさんの隣で『ウォーターパワー』を鑑賞できる多幸感は素晴らしかった。

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主宰の小野寺さんと軽く話をしたところ、「今回の上映作品では一番チケットが売れている」とのことであった。そして、入場前には「満席」とのアナウンスが流れていた。みんな糞尿好きすぎ…。

 

そして上映は昨年同様笑いあり、白熱の逃走劇あり、最後は拍手ありと最高であった。

今年は昨年よりも冷静になって見ることができた。

なぜ、『ウォーターパワー』がここまで愛されているのだろうかということを考えた。

(私も愛している一人。今回のウォーターパワーグッズは全て買いました。)

 

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*1

 

それは、少年ジャンプのテーマ「友情・努力・勝利」に近いのではないかと考えた。

しかし、この主人公、友達はいないので「欲情・努力・勝利」というところだろう。。

この3つの黄金比によってこの作品は成り立っているのだろう!! 

 

「欲情」

あの男(主人公)はこの社会に物足らなさ、意味のなさを感じている。自分は何者でもないという虚無感を持っている。その虚無感をセックスで満たそうと試みるが納得できるような成果を得ることはできない。だからこそ風俗の「スペシャルコース」に異常なまでのこだわりを見せる…(15分コースで一発キメてるのもすごいけど)!そのスペシャルコース(浣腸プレイ)から「浣腸の使者」としての自我が芽生える!そして、浣腸によってこの腐った社会の浄化を自分が託された使命であると自覚する。この自己肯定、自分は特別な人間なんだという思いこそが我々が本当に望んでいる感情なのだ!

 

「努力」

自我の目覚めから、この男は毎日部屋を覗いている女性の家に忍び込んで、レイプ&浣腸童貞を捨て去る!(便座に座っている女性に対して「ウンコしてるところがみたいからバスタブに移動して」というセリフの愛らしさ!)そしてその高揚感から更に道具を買い足し、研究し、深めていくという「努力」が本当に素晴らしい。いろいろな種類の浣腸袋を購入し、成長していく姿を間近で見ることができるのだ。二人同時浣腸に試みたり(ジュネーヴ医学生時代に学んだ風船つき浣腸を使っていた!)、しゃべれないように口にりんごを縛り付けて、水道から直に浣腸をしたりと。この努力と実践力、その飽くなき精神には心からの拍手を贈りたい。

 

「勝利」

そして、この男一般社会から見たら大犯罪者であろう。実際に「エネマ・レイプ犯」として警察に追われている(この警察の無能っぷりももまた愛らしいのだ)。この腐った社会の警察は果たして「正義」なのだろうか?「正義の使者」は一体どっちなのか!?警察が浣腸の現場に駆けつけようとしている緊迫した状況の中、最後はこの男がアッサリ勝利を掴み取るのである。ここが自分の中ではポイントが非常に高い。自分が正しいと信じていることがこれほどまでに肯定され、努力を積み重ねることによって勝利に導かれる。これこそが鬱屈した社会の中で潰されていくのではなく、自分の欲望のままに勝ち続けていきたいという私たちのこころを高ぶらせ熱狂させるのではないだろうか。

 

「努力は必ず報われる!」とかどこかのアイドルが言っていたが、そんな薄っぺらい勝利者の言葉より、ただ社会に対する鬱憤を爆発させ、黙々と自分の使命を全うし、後ろを振り向かず勝ち続けていくことこそが本当の勝利でありこれこそが魅力なのだ。

 

「口先で喚くのではなく、姿勢で表せ」ということを学ばせてくれるのが『ウォーターパワー』なのである。

 

*1:画像はカナザワ映画祭のブログから拝借しましたhttp://eiganokai.blog.fc2.com/blog-entry-507.html

カナザワ映画祭2017レポート~『歯まん』~

カナザワ映画祭2017が始まった!

「期待の新人監督」には、89作品の応募があり、22作品がノミネートとなった。

3日間かけてこの22作品の上映が金沢21世紀美術館シアター21にて行われた。

もうカナザワ映画祭主宰、小野寺氏のブログやツイッターでも報告があった通り、「期待の新人監督賞」には『ハングマンズノット』が選ばれた(私は見逃してしまい、本当に悔やんでいる)。

eiganokai.blog.fc2.com

 

私が鑑賞したのは、短編含め10作品ほどであったが、いくつか印象に残ったものを簡単に書いておきたい。

 

『歯まん』

読み方は、「はまん」。鑑賞直前まで「しまん」と読んでいたのが恥ずかしい(前売り券を買うときにも「『しまん』を一枚ください」と言ってしまった)。

www.youtube.com

 

トーリーは女性器に歯が生えている(本人も知らなかった)女子高生が初めてのセックスで彼氏の男性器をかみちぎってしまい、血しぶきぷしゃー!というもの。

冒頭からいきなり上記の描写で、狂気じみた世界が展開される。しかし、その後、物語は女子高生の内面的な部分から純愛(あまりこの言葉は好きではないが)へと変貌していく。愛とセックスどちらを選べばいいのか、という問題に対して究極的な問いを見ている側に投げかけてくる。

途中で八百屋のオッサンに強姦されるシーンでは、オッサンに対して「こいつは絶対ゆるさねぇ」って思いながら主人公に「やっちまえ!!!」と叫びそうになったり。

そして、人を好きになっても自分はセックスできないというコンプレックスを抱えながらも人を好きになってしまう主人公の痛みを感じた。

 

物語の終盤、これはどのように終わるのだろうか?

「愛」はセックスを超えた偉大なものである、というありきたりなもので終わってしまうのでは?思っていたら、主人公の彼氏が「セックスがしたい」と主人公に伝えるシーンに私は心の中で歓声をあげていた。よく言った!!

 

セックスというものにいろいろな形がある中で、「『愛』と『セックス』は同居し得る」ということを今一度大きく打ち出したのがこの映画の最大の見どころだったのではないかと思う。

「いつ死ぬかわからないから、愛している人とセックスをして死ぬなら本望」

これこそが最大の「愛」なのではないかと強く思わされた。

最後口と歯のアップで終わるのもよかった。

 

 

女性器に歯が生えているというのは、物語としてはあまり不思議ではない。

昔からこのようなことは神話などで語られてきた。

ヴァギナ・デンタタ - Wikipedia

 

今回のカナザワ映画祭「期待の新人監督」は、『家畜人ヤプー』をはじめ、『もりのくまさん』、『自由を手にするその日まで』だったりと、人間の内面に刷り込まれてしまったもの(だからといって許されてはならないもの)を覆す、現代の価値観そのものの否定を真正面から行っている作品が多かった。

 

『歯まん』は画としての豪快さや派手さはあまりなかったが、その分、私たちの内面に迫ってくるようで、見終わって数日後にじわじわとくる映画だった。

 

さいこう!

 

今年もキタ!!!!!カナザワ映画祭2017

今年もカナザワ映画祭、きましたね。

 

https://twitter.com/eiganokai/status/847827771409575937

 

全力でいきましょう…。

http://www.eiganokai.com/event/filmfes2017/teaser.html

 

〜生と死が交ざり合うところ『この音が聴こえているか』〜

先日、とある個人の方がやっている上映会にお邪魔してきた。

そこで、はじめて『この音が聴こえているか』という映画を鑑賞した。


映画「この音が聴こえているか」特報

制作:チーズfilm

監督:戸田彬弘

音楽:和紗

出演:森元芽依、田谷野亮、菊池豪、山林真紀、秋山玲那、川住龍司、上原靖子、小島響子、桜乃まゆこ、田中愛生、松崎映子、大谷幸

 

あらすじ(ホームページ:チーズfilmより)

ファミレスで待ち続ける男・水原。目の前には 変わらずハンバーガーセットが食べ残されている。死者に会えるという噂を頼りに会う方法を探し続ける男・生瀬。生瀬の耳には恋⼈の愛が弾いていた「この道」が聴こえ続けている。どこにも⾏く事のできない⼥・波江は⽔原と会うことを願い続けている。やがて交わる事のできない死者と生者は、互いに想像する事で誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを祈り始める。

f:id:jzzzn:20170213234830p:plainhttp://tuki1.jp/archive/15apr/15apr02/より)

 

30分ほどの短編映画なのだが、これがまあなんというか、完全に心を持っていかれてしまった。

ストーリーがどうのこうのとか、演出とかではなく、言語化が非常に難しい。感情に訴えかけてくるような、とても感覚的な映画だった。簡単に感想を残しておきたい。この映画は生きている者と死んでいる者の話しである。制作が2014年となっており、度々海辺のシーンが流れることから、おそらく3.11をかなり意識しているのではないかと思われる。

予告動画を見ていると、同じセリフが繰り返される。

「言葉は新しく生み出せないから、私はこうすることしかできない。踊ったり、笑ったり、いつか誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを願っている。」

水原という男は、ハンバーガーセットを傍らに、レストランのボックスに一人佇んでいる。彼は、失ってしまったのであろう波江のことを思い返し、会いたいと願っている。波江も同じく失った水原のことを思っている。この映画で非常に印象的なのは、セリフの繰り返しである。上記の予告動画に流れるセリフもそうであるが、劇中で水原と波江がデートをしたあと、明日も会う約束をするシーンのセリフは何度も繰り返される。そして、その一つのセリフをさまざまな表情で表すのである。明るく、「また明日」という希望を見出しつつ心が痛む「痛い」というセリフ、悲しみの中で思い出すように、叫びのような形となって語られる同じセリフ。そして、「痛い」というセリフが「遺体」という言葉に変わる。登場人物が死んでしまっているのだということを知る。

冒頭にも書いたが、個人的な見解でもあるし、おそらくそうなのだろうと思うのだが、3.11をかなり意識しているように感じる。波打ち際でのやりとり、突然愛するものが奪われてしまったという喪失感、やり場のなさ、失った現実を受け入れられず死者と会う方法を探し続ける者。。。あの日のことを思い出さずにはいられないのだ。あの災害によって愛する人、家族を失ってしまった人は同じような気持ちだったのかもしれない。むしろ今もそうなのかもしれない。そのようなことに思いを巡らせていると、予告にも使われているセリフがだんだんと現実味を帯びて迫ってくるのだ。

 

「言葉は新しく生み出せないから、私はこうすることしかできない。踊ったり、笑ったり、いつか誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを願っている。」

 

この世界から自分が失われてしまったとき、残された者に言葉で語りかけることはできないのかもしれない。だから、踊ったり、笑ったりすることで、誰かの記憶に残り、永遠に生き続けることができるのだ。と語っているのではないだろうか。その事実に生きている者も死んでいる者も向き合うことによって、私たちはもう一度、出会えるのだ、一つになれるのだと語りかけているように私は感じた。

f:id:jzzzn:20161204165747j:plain(『この世界の片隅に』下巻より)

この世界の片隅に』でも同じことをすずさんが言っていたような気がします。

 

「生きている」ということ「死んでいる」ということはあまり変わりはないのかもしれない。しかし、その2つの壁は非常に大きい。だが、そうであったとしても、私たちは人の記憶に残ることができる。記憶の中で私たちは、私たち自身を新しく生み出していくことができるのだ。記憶になった者、記憶をする者、この関係は死していようが生きていようが変わることはない。どこかでその二つが交わるときがこの世界にはあるはずだということを示してくれたとても素敵な作品であった。

 

こんなに素晴らしい映画が埋もれてしまっているのは本当にもったいないなあと思う。

ソフト化を激しく希望しております。

 

jzzzn(@bonkurabrain)

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~転ぶ我々と踏まれるイエス、沈黙するキチジロー『沈黙 -サイレンス-』~

『沈黙』を観てきた。

予想以上に素晴らしいできだったので、少しレビューを書こうかと。

映画『沈黙-サイレンス-』アメリカ版予告編

 

▶映画『沈黙』

非常に有名な作家、遠藤周作の『沈黙』が原作のこの映画。

キリシタン弾圧の中でのポルトガル宣教師が抱く信仰への葛藤を描いた、まさしく名著である。特に今更この作品についてあらすじだったり、内容を私の口から語る必要もないだろうと思う。知りたい奴はウィキペディアを見ろ。てか原作を読め。

ただ、特記しておきたいのは、この作品が「半強制的に洗礼を受け、カトリック教徒になり、後に棄教宣言をしている人間」によって描かれたものということである。

キリスト教に挫折した人間の描き出すキリスト教、またはイエス像ということだ。

 

映画は、とにかく日本人役者勢が素晴らしい仕事をしていた。塚本信也演じるモキチが海で殉教するシーンは映画だからこそできる情景の視覚化ができていて、その迫力に胸が押し潰されるような気持ちになった。

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↑ざっぱーん!

また、浅野忠信の役作りもかなり凝っていて、原作にあったようないい人なんじゃないか?だけれども信じれないというキャラクターを見事演じ切っていた。他にも、村人が焼かれてしまうシーンで「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と村人が叫んでいたり、なかなか細かいところまでこだわっているように感じた。

そしてキチジロー。窪塚洋介が出演することは知っていたが、キャスティングなどはまったく頭に入れずに劇場へ行ったので、キチジローとして出てきたときには驚いた。これはちょっとイケメンすぎだろう、と。。もっとキチジローは背がちっこくて汚くて、ねずみ男的なイメージがあったので。。しかしまあ見ていると馴染んでくるような感じがしました。特にあの目力。純粋無垢な目を見ていると、あーキチジロー役に選ばれたのも納得、という感じでした。

 

この映画では、宣教師たちの目の前で切支丹たちがどんどんつかまり、拷問にあっていくというシーンが3時間弱繰り広げられるわけであるが、その間、どれだけ宣教師たちが祈っても神が介在することはない。絶望なまでの「沈黙」が主題となっている。

映画ではあまり明確に描き出されるということはなかったが、原作の最大のクライマックスは、殉教していく信者たちを目にして、最終的に棄教した(転んだ)ロドリゴがキチジローを通して、神の声を聞くところだろう。

「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」

原作を読んだときにこれほど衝撃を受けたことはなかった。

 

▶沈黙する私たち

「沈黙」とはなんなのか。

キリスト教信者は、日々祈り、教会に通い、苦しいときにこそ祈るように言われるだろう。しかし、苦しいときに祈っても神は何も返答しないではないか、という疑問に思って当然のことを投げかけているのである。この問いはおそらく教会で声を大にして言うとかなりの反発を受けてしまうだろう。。。また、この映画でも踏絵を強要されるであろう村人に「踏んでもいい」と言うロドリゴと、「踏んではならない」というガルペの言い争うシーンもある。「沈黙する神」と「踏まれるイエス(またはマリア)」という敬虔なクリスチャンならプンプン怒りそうな内容だ。

しかし、このような疑問が必ずしも出てきながら、「なんとなく」、理由もつけず「なんとなく」スルーしている人間がいかに多いのかということだ。「なぜ神の国はやってこないのか」、「なぜ神はこの場に現れないのか」、このような疑問ははるか昔から行われてきた。

神学の起源: 社会における機能 (神学への船出 (03)) (シリーズ神学への船出)

神学の起源: 社会における機能 (神学への船出 (03)) (シリーズ神学への船出)

 

 

我々は、神と自分を相対的に見ようとしてしまう。神を人格を持った一個人のように扱い、会話が成立するものとしてしまっている。『沈黙』はこのような意識を持ってしまっている我々に異を唱える。「お前たちと共に苦しんでいたのだ」つまり、「語りかけていただろう」と言っている。相対的に神をみようとする我々は、自分が見ているこの空間、現場に何か特別な力(奇跡)が働くことを常に望んでいるが、そうではなく、「お前たちと共に」、苦しんでいる自分自身、つまり神は他者のように存在しているのではなく、苦しむ自分の中、自分という個人の中に存在している、介在しているということなのだ。私たちはそのことに気付くことができない。神の介在を切望し、待ち望む我々は、己と共に介在していた神を知ることはない。つまり語りかけに「沈黙しているのは『我々』なのではないか」ということを感じるのだ。

 

もう一つ、この作品で欠かすことのできない「転ぶ」。「転ぶ」信者と「踏まれるイエス(マリア)」の重要性である。信仰と教義という信者が貫かなければならない誓いともいうべきルールを捨てるよう強要されるとは、信者にとってどのようなことなのかを想像すると身震いをしてしまう。しかし、遠藤周作は「転ぶ」信者、「イエスを踏む」信者を描くのである。中でも一番印象深いのはキチジローの存在だろう。

 

▶キチジローとは誰なのか(ヨブ記を手がかりに)

f:id:jzzzn:20170212223007p:plainウィリアム・ブレイク

ここから少し怒り混じりなのだが、知り合いの自称クリスチャンが『沈黙』を観たことを某SNSに書き込んでいた。正直その内容に怒りが沸いた。まず、原作を読んだことないのにも驚きだったが、内容がまったく理解できておらず、キチジローに至っては、「キーパーソンだけどダメ人間」と恥ずかしげもなく語る始末。がっかりだ。このような感性でよくものを語れてクリスチャンと自称できるなと。

あの映画を見ていれば、イエスがキチジローを通して最後に語りかけることから、キチジローこそが本物のクリスチャンで、イエスなのだということがわかって当然だろう。最初から最後までロドリゴの側にいて、ロドリゴ自身も「そばにいてくれてありがとう」と語っているではないか。側に居たのはキチジローなんだよ。とここで話は完結してしまう。しかし、もう少し、キチジロー=イエス説というか、そのあたりを考えていきたいと思う。

この映画を観てから、古本屋で買って積読していたユングの『ヨブへの答え』を引っ張り出して読んでいる。

ヨブへの答え

ヨブへの答え

 

 『沈黙』という作品を鑑賞、または読んでいると、どうしても『ヨブ記』が頭の中をよぎる。 

旧約聖書〈12〉ヨブ記 箴言

旧約聖書〈12〉ヨブ記 箴言

 

ヨブ記 - Wikipedia

ヨブ記の内容はウィキペディアに書かれている通り、ヨブという純粋に神を賛美していた人間が、悪魔にそそのかされた神に試され、全てを奪われてしまうというところからはじまる。これがしばしばクリスチャンの間でも議論になる書物なのだ。純粋無垢な人間が突然神によって全てを奪われ、身体を蝕まれていく。ある日突然全てが奪われるという現実を目の前にして私たちが嘆くのと同じで、これをどう解釈するべきかは本当に話しが尽きない。

ヨブ記の最後はヨブvs神の問答が行なわれる。これもなかなかきつい神からの問いかけである。

わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。(38章4節)

お前は海の湧き出るところまで行き着き深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。(38章16〜18節)

この話は、最終的にヨブが神の計画の成就を妨げることはできないのだと悟ることで悔い改める。そして、神はヨブを以前よりも祝福し、ヨブは長寿を保ち、老いて死んでいく。

このようなある種傲慢な神を我々はどう理解するべきなのかという問いに、ユングが『ヨブへの答え』で語るヨブ記の見解が非常に興味深いのだ。

ユングは、ヨブ記の神は自分自身が持つ創造という力に酔っていると語る(ヨブ記40章)。 劣等的な意識を持っており、そこに反省や道徳というものは見られない。この物語を通して、神はヨブに道徳的敗北を喫したと言っている。創造主である神が自らの被造物である人間に敗北してしまった、追い越されてしまったということは何を意味するのかというと、神が人間にならなければいけないということなのである。

ヤーヴェは人間にならなければならない、なぜなら彼は人間に不正をなしたからである。(中略)彼の被造物が彼を追い越したからこそ、彼は生まれ変わらなければならないのである。(p.69)

 誰に生まれ変わるのかというと、そう、イエスである。

つまり、神は自分が行った非道徳的な行為に対して、道徳的に上に立った人間に生まれ変わらなければならない。しかし、その人間とは最も罪深いとされる者で、神自身が罪深い者に生まれ変わった。それがイエスということである。また、ユングはイエスには「博愛」という人間的性質があるが、その一方で、怒りっぽさを持っていると語る。つまり、自己反省をしないということだ。しかし、十字架にかけられたとき「わが神、わが神・・・」と叫んでいるところを一つの大きな例外としている。

ここにおいて、すなわち神が死すべき人間を体験し、彼が忠実な僕ヨブに耐え忍ばせたことを経験する瞬間に、彼の人間的な存在は神性を獲得するのである。ここにおいてヨブへの答えが与えられる。(p.73) 

生まれ変わることによってはじめて神が「罪深い人間」を体験し、ヨブが耐え忍んできたことを経験することで、イエス自身が神性を得るというこの一連のヨブから続くイエスの物語を通して感じるものこそ、キチジローなのではと思うのである。

この冒頭に書いた自称クリスチャンの「ダメ人間」というのはちゃんとバラして考えると以上のことなのではないだろうか。イエス自身が罪深い人間として神が生まれ変わったものであり、キチジローは物語を通して「罪深い人間」なのである。彼はユダ的に人を裏切るが、それを無意識的に、トラウマと自己保身の狭間で行ってしまう。そして、それを自覚したときに自己反省と告悔を行うのである。転び続けるのである。

しかし、転び続け、裏切り、そのたびに悔い改める人間の中にイエスはいる。それは、ヨブを通して神が生まれ変わったように、人間を罪深い人間を通してイエスは存在しているのだということである。

つまり、キチジローは私たちであると同時に、イエスが存在しているということなのである。

転び続ける我々と、そのたびに踏まれるイエス、しかしそのような私たちと一緒に苦しんできたではないかという神(イエス)の語りかけが意味するものは想像以上に大きなものなのだ。

 

見ていて思うのは、これは転んだ人間が転んだ人間のために書いたものだなと。

 

踏まれただけで怒り狂う神でたまるかっつーの!

というわけで、素晴らしい映画でした。

 

jzzzn(@bonkuraburain)

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〜日常から奪われていくもの『この世界の片隅に』〜

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今年は良作が豊富だなあと思いながら、予告だけで涙ぐんでしまった映画『この世界の片隅に』。

映画『この世界の片隅に』予告編

11月に公開されているというのに、金沢では12月17日まで公開しない…。

どうなってるんだ金沢!!!(シネモンドさんには感謝!)

東京いったときにでも見るかあと思っていたけれども、どうにも我慢できず、福井コロナシネマワールドまでいって鑑賞。(なんでこんなところでは上映してるんだ…。)

 

前評判もかなり高く、Yahoo!映画(2016年11月26日22時現在)では4.48点という数字を叩き出していた。

movies.yahoo.co.jp

そのため、私もハードルを上げに上げて鑑賞したのだが、これがもう心が洗われて、ほほえましく、涙が流れ、最終的に号泣するという始末に。

 

この映画を語る人たちで議論になっているのは「反戦映画」なのか「反戦映画ではない」のかということらしい。

lite-ra.com

 

私はそもそも「反戦」かどうかという議論をこの映画に持ち込むべきなのかどうかがまず疑問である。

この映画は、すずさんが広島で幼少期を過ごし、一目惚れしたという周作の家に嫁に行き、嫁入り先の呉市で過ごすという至ってシンプルな話である。

この物語の中ですずさんは正義感を振りかざして「戦争はいけない!」とは言わない。

そこがこの映画の魅力だろう。

そんなこと「言えない」し、そもそもそう思ってさえいない。

 

「何でも使うて、暮らし続けにゃならんのですけぇ。うちらは。」

 

これは日常なのである。

だから「戦争はおかしい!」なんて言わない。

しかし、少しずつ少しずつ自分たちの日常から大切なものが奪われていく。

 

「鬼いちゃん」、「スケッチブック」、「姪」、「右手」、「家族」

 

戦争によって奪われたなんてすずさんは一言も言わない。

 

日常を追い求める中で私たちは辛いことがあっても日常に戻っていこうとする。

しかし、この映画ではいつの間にか、日常にあったものがどんどん奪われていってしまう。

 

しかし、「戦争が終わった」ということを知ったときに戦争は過去のものになり、今まで暮らしてきていた日常が「戦時中の日常」だったということに気付かされる。そのときにすずさんは心の中でこれまでうっすらと感じていたものの、決して感情には表さなかった奪われていってしまったものを正面から自覚し、受け止めなければならなくなった。だからこそのあの涙と心の叫び、「ただ何も考えずに楽しく暮らしたかった」という言葉につながるのだろう。

 

こんなことがあったから戦争はダメですよ!

というのは戦争で何があったのかを勉強し、聞いた現在を生きる私たちが言うのであって、この映画のすずさんはそうは思っていないだろう。

 

そして、戦争が終わったという重要なシーンではこんな議論もされているとのこと…。

togetter.com

大丈夫なのか…。

 

映画ではこのあたり、なぜ太極旗が掲げられていて、すずさんが号泣するのかはよくわからなくなっていた。漫画ではすずさんのようなおっとりしたキャラがこのシーンで、はじめて自分の日常の中に抑圧されていた人間がいたことを知るのだが、あまりにも唐突すぎるし、すずさんのキャラに合っていないという意見もある。

しかし、私はこの点においては漫画版の方がよかったなあと思う。

この映画のテーマは「日常」であって、「日常」の中で気付かないうちに大切なものが奪われることがあり、その一方で自分も誰かの大切なものを奪っているのかもしれないということなのだ。

 

映画では白木リンにもあまり触れられていないのが残念だ。

「誰でも何かが足らんぐらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」

と言ってすずさんを励ますシーンが原作にはある。

「この世界の片隅」に私たち一人ひとりが生きていて、その中で「日常」を過ごしている。

 

この映画を見て、反戦かどうかを議論してる人たちはこの映画の何を見たの?としか思わない。

 

あと、兵器描写もとてもすごかった。

私は兵器についてはあまり詳しくないが、音や爆弾が降ってくる感じ、見ているだけでとても怖くなってしまった。

 

なにわともあれ

とても素晴らしい映画だった。