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ツイッターやってます(@bonkurabrain)。映画について書こうかと。映画は体験であって、映画が不謹慎で何が悪いがモットー。本、映画、宗教の話が好き。

今年もキタ!!!!!カナザワ映画祭2017

今年もカナザワ映画祭、きましたね。

 

https://twitter.com/eiganokai/status/847827771409575937

 

全力でいきましょう…。

http://www.eiganokai.com/event/filmfes2017/teaser.html

 

〜生と死が交ざり合うところ『この音が聴こえているか』〜

先日、とある個人の方がやっている上映会にお邪魔してきた。

そこで、はじめて『この音が聴こえているか』という映画を鑑賞した。


映画「この音が聴こえているか」特報

制作:チーズfilm

監督:戸田彬弘

音楽:和紗

出演:森元芽依、田谷野亮、菊池豪、山林真紀、秋山玲那、川住龍司、上原靖子、小島響子、桜乃まゆこ、田中愛生、松崎映子、大谷幸

 

あらすじ(ホームページ:チーズfilmより)

ファミレスで待ち続ける男・水原。目の前には 変わらずハンバーガーセットが食べ残されている。死者に会えるという噂を頼りに会う方法を探し続ける男・生瀬。生瀬の耳には恋⼈の愛が弾いていた「この道」が聴こえ続けている。どこにも⾏く事のできない⼥・波江は⽔原と会うことを願い続けている。やがて交わる事のできない死者と生者は、互いに想像する事で誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを祈り始める。

f:id:jzzzn:20170213234830p:plainhttp://tuki1.jp/archive/15apr/15apr02/より)

 

30分ほどの短編映画なのだが、これがまあなんというか、完全に心を持っていかれてしまった。

ストーリーがどうのこうのとか、演出とかではなく、言語化が非常に難しい。感情に訴えかけてくるような、とても感覚的な映画だった。簡単に感想を残しておきたい。この映画は生きている者と死んでいる者の話しである。制作が2014年となっており、度々海辺のシーンが流れることから、おそらく3.11をかなり意識しているのではないかと思われる。

予告動画を見ていると、同じセリフが繰り返される。

「言葉は新しく生み出せないから、私はこうすることしかできない。踊ったり、笑ったり、いつか誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを願っている。」

水原という男は、ハンバーガーセットを傍らに、レストランのボックスに一人佇んでいる。彼は、失ってしまったのであろう波江のことを思い返し、会いたいと願っている。波江も同じく失った水原のことを思っている。この映画で非常に印象的なのは、セリフの繰り返しである。上記の予告動画に流れるセリフもそうであるが、劇中で水原と波江がデートをしたあと、明日も会う約束をするシーンのセリフは何度も繰り返される。そして、その一つのセリフをさまざまな表情で表すのである。明るく、「また明日」という希望を見出しつつ心が痛む「痛い」というセリフ、悲しみの中で思い出すように、叫びのような形となって語られる同じセリフ。そして、「痛い」というセリフが「遺体」という言葉に変わる。登場人物が死んでしまっているのだということを知る。

冒頭にも書いたが、個人的な見解でもあるし、おそらくそうなのだろうと思うのだが、3.11をかなり意識しているように感じる。波打ち際でのやりとり、突然愛するものが奪われてしまったという喪失感、やり場のなさ、失った現実を受け入れられず死者と会う方法を探し続ける者。。。あの日のことを思い出さずにはいられないのだ。あの災害によって愛する人、家族を失ってしまった人は同じような気持ちだったのかもしれない。むしろ今もそうなのかもしれない。そのようなことに思いを巡らせていると、予告にも使われているセリフがだんだんと現実味を帯びて迫ってくるのだ。

 

「言葉は新しく生み出せないから、私はこうすることしかできない。踊ったり、笑ったり、いつか誰かの想像の中に紛れ込んでいけることを願っている。」

 

この世界から自分が失われてしまったとき、残された者に言葉で語りかけることはできないのかもしれない。だから、踊ったり、笑ったりすることで、誰かの記憶に残り、永遠に生き続けることができるのだ。と語っているのではないだろうか。その事実に生きている者も死んでいる者も向き合うことによって、私たちはもう一度、出会えるのだ、一つになれるのだと語りかけているように私は感じた。

f:id:jzzzn:20161204165747j:plain(『この世界の片隅に』下巻より)

この世界の片隅に』でも同じことをすずさんが言っていたような気がします。

 

「生きている」ということ「死んでいる」ということはあまり変わりはないのかもしれない。しかし、その2つの壁は非常に大きい。だが、そうであったとしても、私たちは人の記憶に残ることができる。記憶の中で私たちは、私たち自身を新しく生み出していくことができるのだ。記憶になった者、記憶をする者、この関係は死していようが生きていようが変わることはない。どこかでその二つが交わるときがこの世界にはあるはずだということを示してくれたとても素敵な作品であった。

 

こんなに素晴らしい映画が埋もれてしまっているのは本当にもったいないなあと思う。

ソフト化を激しく希望しております。

 

jzzzn(@bonkurabrain)

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~転ぶ我々と踏まれるイエス、沈黙するキチジロー『沈黙 -サイレンス-』~

『沈黙』を観てきた。

予想以上に素晴らしいできだったので、少しレビューを書こうかと。

映画『沈黙-サイレンス-』アメリカ版予告編

 

▶映画『沈黙』

非常に有名な作家、遠藤周作の『沈黙』が原作のこの映画。

キリシタン弾圧の中でのポルトガル宣教師が抱く信仰への葛藤を描いた、まさしく名著である。特に今更この作品についてあらすじだったり、内容を私の口から語る必要もないだろうと思う。知りたい奴はウィキペディアを見ろ。てか原作を読め。

ただ、特記しておきたいのは、この作品が「半強制的に洗礼を受け、カトリック教徒になり、後に棄教宣言をしている人間」によって描かれたものということである。

キリスト教に挫折した人間の描き出すキリスト教、またはイエス像ということだ。

 

映画は、とにかく日本人役者勢が素晴らしい仕事をしていた。塚本信也演じるモキチが海で殉教するシーンは映画だからこそできる情景の視覚化ができていて、その迫力に胸が押し潰されるような気持ちになった。

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↑ざっぱーん!

また、浅野忠信の役作りもかなり凝っていて、原作にあったようないい人なんじゃないか?だけれども信じれないというキャラクターを見事演じ切っていた。他にも、村人が焼かれてしまうシーンで「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と村人が叫んでいたり、なかなか細かいところまでこだわっているように感じた。

そしてキチジロー。窪塚洋介が出演することは知っていたが、キャスティングなどはまったく頭に入れずに劇場へ行ったので、キチジローとして出てきたときには驚いた。これはちょっとイケメンすぎだろう、と。。もっとキチジローは背がちっこくて汚くて、ねずみ男的なイメージがあったので。。しかしまあ見ていると馴染んでくるような感じがしました。特にあの目力。純粋無垢な目を見ていると、あーキチジロー役に選ばれたのも納得、という感じでした。

 

この映画では、宣教師たちの目の前で切支丹たちがどんどんつかまり、拷問にあっていくというシーンが3時間弱繰り広げられるわけであるが、その間、どれだけ宣教師たちが祈っても神が介在することはない。絶望なまでの「沈黙」が主題となっている。

映画ではあまり明確に描き出されるということはなかったが、原作の最大のクライマックスは、殉教していく信者たちを目にして、最終的に棄教した(転んだ)ロドリゴがキチジローを通して、神の声を聞くところだろう。

「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」

原作を読んだときにこれほど衝撃を受けたことはなかった。

 

▶沈黙する私たち

「沈黙」とはなんなのか。

キリスト教信者は、日々祈り、教会に通い、苦しいときにこそ祈るように言われるだろう。しかし、苦しいときに祈っても神は何も返答しないではないか、という疑問に思って当然のことを投げかけているのである。この問いはおそらく教会で声を大にして言うとかなりの反発を受けてしまうだろう。。。また、この映画でも踏絵を強要されるであろう村人に「踏んでもいい」と言うロドリゴと、「踏んではならない」というガルペの言い争うシーンもある。「沈黙する神」と「踏まれるイエス(またはマリア)」という敬虔なクリスチャンならプンプン怒りそうな内容だ。

しかし、このような疑問が必ずしも出てきながら、「なんとなく」、理由もつけず「なんとなく」スルーしている人間がいかに多いのかということだ。「なぜ神の国はやってこないのか」、「なぜ神はこの場に現れないのか」、このような疑問ははるか昔から行われてきた。

神学の起源: 社会における機能 (神学への船出 (03)) (シリーズ神学への船出)

神学の起源: 社会における機能 (神学への船出 (03)) (シリーズ神学への船出)

 

 

我々は、神と自分を相対的に見ようとしてしまう。神を人格を持った一個人のように扱い、会話が成立するものとしてしまっている。『沈黙』はこのような意識を持ってしまっている我々に異を唱える。「お前たちと共に苦しんでいたのだ」つまり、「語りかけていただろう」と言っている。相対的に神をみようとする我々は、自分が見ているこの空間、現場に何か特別な力(奇跡)が働くことを常に望んでいるが、そうではなく、「お前たちと共に」、苦しんでいる自分自身、つまり神は他者のように存在しているのではなく、苦しむ自分の中、自分という個人の中に存在している、介在しているということなのだ。私たちはそのことに気付くことができない。神の介在を切望し、待ち望む我々は、己と共に介在していた神を知ることはない。つまり語りかけに「沈黙しているのは『我々』なのではないか」ということを感じるのだ。

 

もう一つ、この作品で欠かすことのできない「転ぶ」。「転ぶ」信者と「踏まれるイエス(マリア)」の重要性である。信仰と教義という信者が貫かなければならない誓いともいうべきルールを捨てるよう強要されるとは、信者にとってどのようなことなのかを想像すると身震いをしてしまう。しかし、遠藤周作は「転ぶ」信者、「イエスを踏む」信者を描くのである。中でも一番印象深いのはキチジローの存在だろう。

 

▶キチジローとは誰なのか(ヨブ記を手がかりに)

f:id:jzzzn:20170212223007p:plainウィリアム・ブレイク

ここから少し怒り混じりなのだが、知り合いの自称クリスチャンが『沈黙』を観たことを某SNSに書き込んでいた。正直その内容に怒りが沸いた。まず、原作を読んだことないのにも驚きだったが、内容がまったく理解できておらず、キチジローに至っては、「キーパーソンだけどダメ人間」と恥ずかしげもなく語る始末。がっかりだ。このような感性でよくものを語れてクリスチャンと自称できるなと。

あの映画を見ていれば、イエスがキチジローを通して最後に語りかけることから、キチジローこそが本物のクリスチャンで、イエスなのだということがわかって当然だろう。最初から最後までロドリゴの側にいて、ロドリゴ自身も「そばにいてくれてありがとう」と語っているではないか。側に居たのはキチジローなんだよ。とここで話は完結してしまう。しかし、もう少し、キチジロー=イエス説というか、そのあたりを考えていきたいと思う。

この映画を観てから、古本屋で買って積読していたユングの『ヨブへの答え』を引っ張り出して読んでいる。

ヨブへの答え

ヨブへの答え

 

 『沈黙』という作品を鑑賞、または読んでいると、どうしても『ヨブ記』が頭の中をよぎる。 

旧約聖書〈12〉ヨブ記 箴言

旧約聖書〈12〉ヨブ記 箴言

 

ヨブ記 - Wikipedia

ヨブ記の内容はウィキペディアに書かれている通り、ヨブという純粋に神を賛美していた人間が、悪魔にそそのかされた神に試され、全てを奪われてしまうというところからはじまる。これがしばしばクリスチャンの間でも議論になる書物なのだ。純粋無垢な人間が突然神によって全てを奪われ、身体を蝕まれていく。ある日突然全てが奪われるという現実を目の前にして私たちが嘆くのと同じで、これをどう解釈するべきかは本当に話しが尽きない。

ヨブ記の最後はヨブvs神の問答が行なわれる。これもなかなかきつい神からの問いかけである。

わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。(38章4節)

お前は海の湧き出るところまで行き着き深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。(38章16〜18節)

この話は、最終的にヨブが神の計画の成就を妨げることはできないのだと悟ることで悔い改める。そして、神はヨブを以前よりも祝福し、ヨブは長寿を保ち、老いて死んでいく。

このようなある種傲慢な神を我々はどう理解するべきなのかという問いに、ユングが『ヨブへの答え』で語るヨブ記の見解が非常に興味深いのだ。

ユングは、ヨブ記の神は自分自身が持つ創造という力に酔っていると語る(ヨブ記40章)。 劣等的な意識を持っており、そこに反省や道徳というものは見られない。この物語を通して、神はヨブに道徳的敗北を喫したと言っている。創造主である神が自らの被造物である人間に敗北してしまった、追い越されてしまったということは何を意味するのかというと、神が人間にならなければいけないということなのである。

ヤーヴェは人間にならなければならない、なぜなら彼は人間に不正をなしたからである。(中略)彼の被造物が彼を追い越したからこそ、彼は生まれ変わらなければならないのである。(p.69)

 誰に生まれ変わるのかというと、そう、イエスである。

つまり、神は自分が行った非道徳的な行為に対して、道徳的に上に立った人間に生まれ変わらなければならない。しかし、その人間とは最も罪深いとされる者で、神自身が罪深い者に生まれ変わった。それがイエスということである。また、ユングはイエスには「博愛」という人間的性質があるが、その一方で、怒りっぽさを持っていると語る。つまり、自己反省をしないということだ。しかし、十字架にかけられたとき「わが神、わが神・・・」と叫んでいるところを一つの大きな例外としている。

ここにおいて、すなわち神が死すべき人間を体験し、彼が忠実な僕ヨブに耐え忍ばせたことを経験する瞬間に、彼の人間的な存在は神性を獲得するのである。ここにおいてヨブへの答えが与えられる。(p.73) 

生まれ変わることによってはじめて神が「罪深い人間」を体験し、ヨブが耐え忍んできたことを経験することで、イエス自身が神性を得るというこの一連のヨブから続くイエスの物語を通して感じるものこそ、キチジローなのではと思うのである。

この冒頭に書いた自称クリスチャンの「ダメ人間」というのはちゃんとバラして考えると以上のことなのではないだろうか。イエス自身が罪深い人間として神が生まれ変わったものであり、キチジローは物語を通して「罪深い人間」なのである。彼はユダ的に人を裏切るが、それを無意識的に、トラウマと自己保身の狭間で行ってしまう。そして、それを自覚したときに自己反省と告悔を行うのである。転び続けるのである。

しかし、転び続け、裏切り、そのたびに悔い改める人間の中にイエスはいる。それは、ヨブを通して神が生まれ変わったように、人間を罪深い人間を通してイエスは存在しているのだということである。

つまり、キチジローは私たちであると同時に、イエスが存在しているということなのである。

転び続ける我々と、そのたびに踏まれるイエス、しかしそのような私たちと一緒に苦しんできたではないかという神(イエス)の語りかけが意味するものは想像以上に大きなものなのだ。

 

見ていて思うのは、これは転んだ人間が転んだ人間のために書いたものだなと。

 

踏まれただけで怒り狂う神でたまるかっつーの!

というわけで、素晴らしい映画でした。

 

jzzzn(@bonkuraburain)

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〜日常から奪われていくもの『この世界の片隅に』〜

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今年は良作が豊富だなあと思いながら、予告だけで涙ぐんでしまった映画『この世界の片隅に』。

映画『この世界の片隅に』予告編

11月に公開されているというのに、金沢では12月17日まで公開しない…。

どうなってるんだ金沢!!!(シネモンドさんには感謝!)

東京いったときにでも見るかあと思っていたけれども、どうにも我慢できず、福井コロナシネマワールドまでいって鑑賞。(なんでこんなところでは上映してるんだ…。)

 

前評判もかなり高く、Yahoo!映画(2016年11月26日22時現在)では4.48点という数字を叩き出していた。

movies.yahoo.co.jp

そのため、私もハードルを上げに上げて鑑賞したのだが、これがもう心が洗われて、ほほえましく、涙が流れ、最終的に号泣するという始末に。

 

この映画を語る人たちで議論になっているのは「反戦映画」なのか「反戦映画ではない」のかということらしい。

lite-ra.com

 

私はそもそも「反戦」かどうかという議論をこの映画に持ち込むべきなのかどうかがまず疑問である。

この映画は、すずさんが広島で幼少期を過ごし、一目惚れしたという周作の家に嫁に行き、嫁入り先の呉市で過ごすという至ってシンプルな話である。

この物語の中ですずさんは正義感を振りかざして「戦争はいけない!」とは言わない。

そこがこの映画の魅力だろう。

そんなこと「言えない」し、そもそもそう思ってさえいない。

 

「何でも使うて、暮らし続けにゃならんのですけぇ。うちらは。」

 

これは日常なのである。

だから「戦争はおかしい!」なんて言わない。

しかし、少しずつ少しずつ自分たちの日常から大切なものが奪われていく。

 

「鬼いちゃん」、「スケッチブック」、「姪」、「右手」、「家族」

 

戦争によって奪われたなんてすずさんは一言も言わない。

 

日常を追い求める中で私たちは辛いことがあっても日常に戻っていこうとする。

しかし、この映画ではいつの間にか、日常にあったものがどんどん奪われていってしまう。

 

しかし、「戦争が終わった」ということを知ったときに戦争は過去のものになり、今まで暮らしてきていた日常が「戦時中の日常」だったということに気付かされる。そのときにすずさんは心の中でこれまでうっすらと感じていたものの、決して感情には表さなかった奪われていってしまったものを正面から自覚し、受け止めなければならなくなった。だからこそのあの涙と心の叫び、「ただ何も考えずに楽しく暮らしたかった」という言葉につながるのだろう。

 

こんなことがあったから戦争はダメですよ!

というのは戦争で何があったのかを勉強し、聞いた現在を生きる私たちが言うのであって、この映画のすずさんはそうは思っていないだろう。

 

そして、戦争が終わったという重要なシーンではこんな議論もされているとのこと…。

togetter.com

大丈夫なのか…。

 

映画ではこのあたり、なぜ太極旗が掲げられていて、すずさんが号泣するのかはよくわからなくなっていた。漫画ではすずさんのようなおっとりしたキャラがこのシーンで、はじめて自分の日常の中に抑圧されていた人間がいたことを知るのだが、あまりにも唐突すぎるし、すずさんのキャラに合っていないという意見もある。

しかし、私はこの点においては漫画版の方がよかったなあと思う。

この映画のテーマは「日常」であって、「日常」の中で気付かないうちに大切なものが奪われることがあり、その一方で自分も誰かの大切なものを奪っているのかもしれないということなのだ。

 

映画では白木リンにもあまり触れられていないのが残念だ。

「誰でも何かが足らんぐらいでこの世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」

と言ってすずさんを励ますシーンが原作にはある。

「この世界の片隅」に私たち一人ひとりが生きていて、その中で「日常」を過ごしている。

 

この映画を見て、反戦かどうかを議論してる人たちはこの映画の何を見たの?としか思わない。

 

あと、兵器描写もとてもすごかった。

私は兵器についてはあまり詳しくないが、音や爆弾が降ってくる感じ、見ているだけでとても怖くなってしまった。

 

なにわともあれ

とても素晴らしい映画だった。

カナザワ映画祭2016 ~今禁断の扉(肛門)が開かれる…『ウォーターパワー』~

 

これまでは、カナザワ映画祭『マッドマックス 怒りのデスロード』、『It is Fine! EVERYTING IS FINE.』、『ロッキーホラーショー』と感想を書かせてもらった。

カナザワ映画祭で見た映画の感想を語るのなら、今年で終わりのカナザワ映画祭の中でも屈指の怪作、いや超傑作『ウォーターパワー』は避けて通ることはできないだろう…。

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『ウォーターパワー』日本語に訳すなら、『水の力』…。

いや、『パワー・オブ・ウォーター』ではないので、『水力』と訳すのがベストなのか…。

 

 

あらすじ

どのような映画か聞かれると鑑賞した人間に聞くと全員が口をそろえて『浣腸映画』と答えるだろう。

日常に辟易としていた主人公が(隣の家に住む美女を望遠鏡で覗く変態野郎)、風俗に行って一発抜いてもらった後、スペシャル・コースの存在を知り、見学に行ったところ医者に扮した客が嬢に浣腸をかましているところを目の当たりにする。見学していた主人公はその光景を目の当たりにしながら絶頂を迎えるという新たな性癖の目覚めを体験する。

そこから主人公は浣腸にドハマりしていくのだが、最終的には浣腸で乱れた社会、乱れた性を正しはじめることを決意する。世直しをはじめるのだ!!

主人公はなぜか浣腸をする前にはその相手をレイプするのだが、体内に溜まった悪いものを、浣腸を使ってすべて出すことによって浄化をしていくという謎のレイプ正当化を行うのである…!!

つまり、いろんな角度からこの映画を語ろうとしてももう『浣腸』からしか語ることはできないのだ

 

浣腸は、我々に取っても非常に馴染み深い。

小さい頃は誰しもが手を組み、人差し指を伸ばして「カンチョー!」と叫びながら他人のお尻に突撃をしたことだろう。

なぜ浣腸は僕たちをそこまで魅了するのだろうか。

 

僕は、『ウォーターパワー』の魅力をたっぷりと伝えるためにまずは浣腸の歴史をディグる必要があると思い立ったのである。

 

浣腸の歴史

『ウォーターパワー』の見どころは浣腸だけではない。

なんかよくわからないけど、無駄に名言が連発するところだ。

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これは、風俗で医者に扮した男性(※主人公ではない)がプレイ中口にする名言である。

「浣腸と人類は切っても切り離せない」

………。ふむ。

確かにその通りかもしれない。

僕もストレスや起床時間などが変わると一気に便秘になる人間なので、高校受験は『イチジク浣腸』で乗り切ったと言っても過言ではない。

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皆も経験があるはずだ…。そう信じたい。

受験期…冬の寒い日に体内に冷たい薬液が注入される感じ…。

猛烈に襲ってくる腹痛…しばらく我慢しないと意味がないと言ってくる母親…迎える限界…。

この映画を見ているとそういった懐かしい思い出がフラッシュバックしてきた。

 

話がそれたが、浣腸の歴史について調べてみても意外と出てこない。

本当は文献などから引用したいのだが、そういった論文などもあまりない様子。

不本意ながらインターネットの記事から引用していくことに。

その中でも見つけたのがこのような情報だった。

 ほほう。これはなかなか信頼できる情報かもしれない。

それにしても古代エジプトからだとは…。

しかし、こんな鳥を見て「ひらめいた…!」となった古代エジプト人どうなってるんだよとも思ったりするが。。

 

さらに調べるとこんなサイトも。

thebenpi.com

 

医療行為としての浣腸の起源は、紀元前1500年ごろの古代エジプトにまで遡れるといわれています。その後、浣腸は古代エジプトから古代ギリシャに伝わり、世界中に広まっていきます。
日本に浣腸が伝来したのは、海外の文化が伝わるようになった戦国時代ごろのことで、江戸時代ごろには医療行為として医師によって行われていたという記録があります。

 

やはり古代エジプトが起源なのか。やはり人類の歴史と切っては切り離せないではないか…!! 

しかし、やはりその起源は医療行為。

つまり、排泄のための器官がどこかのタイミングで性器へと変わっていったということだ。

では、どこからその医療行為がその枠組みを超え、性的嗜好へと変貌を遂げたのだろうか。

 

ヒトは水から生まれ水へと還るのか

このような本がある。 

お尻とその穴の文化史

お尻とその穴の文化史

 

タイトルからしてかなり惹き付けてくるものがある。この記事を書こうと思い立ってから発見したので、僕の手元にはない(注文済)。

この本の内容に触れたホームページを見つけたので今はそちらを参照したい。

やっぱり尻が好き「お尻とその穴の文化史」: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

浣腸と洗浄剤は、肉体と魂を洗浄すると信じられてきたそうな。

まさしくこの映画の主人公の主張そのもの!!!

アヌスとお尻は、想像力のあまりない人間にとってすら魅力的な場所であり、すこし大胆な人間にとっては、あたらしい喜びを与えてくれる謎めいた穴であり、さらに大胆な人間にとっては、タブーを破ることでなおさら刺激的になる性の香辛料なのである。

!!!!!!!

秘められたものほど魅力を感じる…。

確かに自分で自分の尻の穴を見る機会はそうそうない。

動物は、自分にはない、もしくは自分では確認することのできないものにこそ性的好奇心を刺激されるのかもしれない。

つまりこれは本能なのだろう。

ヒトは、水から生まれ、水へ還ろうとするのかもしれない…。

 

そして、ウィキペディアで「浣腸プレイ」で検索をかけてみたところ僕は驚愕した。

浣腸プレイ - Wikipedia

なんなんだこの数…。

パートナーと行う場合は特に、パートナーの望む行為とずれがないのかを十分確認しておく必要がある。

あ、、、はい…。

バリエーションについてもかなり詳しく載っている。

特に一番気になったのはこれ。

浣腸バトル
2人に浣腸液を挿入して、排便を長く我慢できた方が勝ち。

ネーミング…。

さらに、そしてこの項目の関連作品の一番上には『ウォーターパワー』と書かれている!

 

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 もう本当にこの言葉通りである。

 

さらに浣腸は安易に行うと相手を怪我させてしまったり、迷惑防止条例違反にひっかかったり、医師法違反になることもあるそうな。

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 本当にその通りだ…。

 

このように見ていくと、何やら主人公の主張が理に適っているように感じてしまう。

 

やはり、浣腸は我々人類とは切っても切れない関係にあるのだろう。

コーヒー浣腸なんてのも流行ってたし、ウォシュレット浣腸なんてやってる人多いんじゃないかな?

 

そして、何より驚いたのはこの映画を見に来ている人の数!!

カナザワ映画祭オールタイムベスト1位ということはもちろんあるのだが、女性が多かったことにとても驚いた。

この映画、全編無修正だったのでいろいろと丸見えだったのだが、それを見ながら隣で女性が笑っていて僕の胸も少し高鳴ってしまった。。

 

この映画を見て、読書好きの知り合いが言っていた言葉を思い出した。

 「小説は、自分が経験することはない、たくさんの人の人生を知ることができる。だからこそ豊かになれるし、そこに読む意味があるんだ。」

映画も同じで、自分1人では経験できない人生を映画を通して体験するのであろう。だからこそ、人生に影響を与えたり、狂わせるものに出会うのである。

 

そしてこの『ウォーターパワー』では完全に人生観を狂わされたと感じている。

 

さあ!みんなで世直しだ!!!

 

 

 

 

 

 

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カナザワ映画祭2016 〜永遠の時間旅行へ『ロッキー・ホラー・ショー』〜

今日のお昼前、何気なく当ブログのアクセス解析を開いてみたところ、

これまで総アクセス数24とかだったのが急に三桁に…。

一体何が起きてるんだ…と思いながら、ツイッターで「カナザワ映画祭」で検索をかけてみると、カナザワ映画祭主宰の小野寺さんがこのブログをツイートしてくださっていました。どこからこのブログを見つけたのか…笑

本当にありがとうございます。めちゃくちゃ嬉しいです。

 

 

いつもなら映画を見ている時間帯ですが、今日は近所のGEOで借りた『人間ムカデ』を見たら、ただのポルノ映画というかパロディAVでガッカリしたので、ブログを書こうかなと。(というかあんなのを「ホラー」のコーナーに置くなや…。『ムカデ人間』をモチーフにしたサイコホラーだと思ってワクワクしていたあのピュアな気持ちを返せ。)

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カナザワ映画祭2016は、忘れることのできない映画ばかりですが、個人的にその中でも特に印象深いのが、ロッキー・ホラー・ショーです。

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ロッキー・ホラー・ショー』は、もともと個人的オールタイムベストには入る作品なのですが(ちなみに1位はヤン・イクチュン監督の『息もできない』)、劇場で見るのは初めてでした。

もちろんロッキー・ホラー・ショーファンクラブ、LIP'Sもパフォーマンスも!

(僕はずっと川崎に住んでいて、カワサキハロウィンの存在も知っていたのにヴァージンを守り抜いていました。。。ピュア!)

 

ということで、かなり気合いを入れて準備をしていたわけです。

職場で古新聞をもらったり、100均でクラッカーとかゴム手袋を買ったり、仕事後に自宅で紙吹雪を一人でせっせと作ったり…。

なんだろう、この童貞だけどやたらセックスに関する知識は豊富な感じ…。

 

そして小学校の遠足以来のワクワクを胸に秘めながら会場へ!!

そしたらもう長蛇の列!!

劇場ではLIP'Sのメンバーがノイズメーカーやら何やら僕が必死に準備したものを観客に配っているではないか。しかも無料で・・・!

「僕の苦労は何だったんだ…」と思うと同時に、「何なんだこのホスピタリティは…」と驚愕した。

そして、会場にはサタニスト、高橋ヨシキも(すぐ近くに座席を確保)!!

さすが噂に名高いロキホラフリーク。

しかも3年前同様(行ってないけど調査済み)、ヨシキさんからビールの差し入れが!!!

f:id:jzzzn:20161026212000j:plainLIP'Sにいただいた英字新聞とノイズメーカー。そして差し入れの淡麗。

 

もうこの時点で個人的には大盛り上がりですよ。ノイズメーカー鳴らしたり、ビール飲んだり。

そして上映前にはLIP'Sによるヴァージンいじりが!!

「ヴァージンの人〜?」との声に勢い良く手を上げると、隣の方に「絶対ヴァージンじゃないでしょ笑」と言われてしまいました。

違うんだ…。知識だけが豊富なヴァージンなんだよ…。

 

そしてみんなでこの映画の最大にして最高の盛り上がりポイント、『タイムワープ』のダンス練習!!これがまた楽しい!!

 

そしていよいよ上映開始…!まずはお決まりの唇が迫ってくる!!!

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もう展開は知っているんだが、高橋ヨシキさんがすごい…。

 

「そんな野次知らねえぞ…」というものから、車がパンクするシーンで寸分の狂いなく手を鳴らしたり、犯罪学者のおっさんのセリフを一字一句言えたり。もう近くで聞いてて爆笑ですよ。

 

目の前で行なわれるLIP'Sの演出にも笑いが止まらない。

ジャネットとブラッドが車に乗ってドクタースコットに会いに行くシーンで、LIP'Sのブラッド役の人が、ハンドルに見立てた洗濯干しを掲げて、「イモータンジョー!!!」って叫んでたのが今でも強烈なインパクトとして残ってる。

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そして映画は続いていく。

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雨が降ってきたらみんなで新聞紙をかぶる!!!

ノイズメーカーで音を鳴らしまくる!!!

そしてタイムワープではみんなで踊る!!!(写真ない!)

 

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前田利家に扮して出てくるリフラフ(カナザワ仕様)。

 

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そしてあっという間に上映終了。

いやはや、LIP'Sのみなさん本当にありがとうございました。

 

しかし、これで終わりかと思いきや、、、

みんなでもう一度タイムワープ!!!!

 

気付いたらステージの上で踊っていました。

 

ただただ感無量でした。

 

以前のマッドマックス野外爆音上映の記事では、

映画というものは、「観る」だけのものではなくて「体験」するもの 

とカッコつけて書いていましたが、これはあのマッドマックスで体験したものとは明らかに形の違う一つの「体験」でした。

なんというか、(これ以上ない賛辞を込めた)すごくいい意味で「異様」な感じでした。

すごくいい…!!

 

マッドマックス野外爆音上映といい、ロッキーホラーショーといい、もう本当に最高すぎる。

余談だけど、これらを体験したあとにシン・ゴジラ』の発生可能上映の映像見たらまじで寒気した。なんなんだよあれ。

 

www.youtube.com

 

あの日以来すっかりLIP'Sの上演についても追っています。

カワサキハロウィンは今年は行けないので、立川で年末にやるらしい(!?)上演に何としてでも行きたいと願っています。

 

 

もう一度タイムワープおどりたいなー。

 

 

 

 

 

 

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カナザワ映画祭2016 〜『It is Fine! EVERYTHING IS FINE.』を観て。我々は大丈夫なのだろうか〜

カナザワ映画祭が終わってから一ヶ月が経った。

全然更新もしてないけど、ひっそりとは続けていこうかと。

今回は、クリスピン・グローヴァーの『It is Fine! EVERYTHING IS FINE.』を見た感想というか、あれを見た時に感じたものを個人的に整理したい。

まずこの作品はカナザワ映画祭オールタイムベストで『ウォーターパワー』と同率で一位というカルト的人気作品。

www.eiganokai.com

 

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ロングヘアーフェチのモテモテ障害者が、女性とセックスしたあと殺していくという物語。

簡単に言うとそれだけなんだけど、なんとも内容が詰まりすぎていて一ヶ月ずっとそのことを考えてた。

 

なんというか、見ている人間が内包している偽善的かつ道徳的に不可侵とされている(している)部分を強制的にズルムケにしてくるような感じ…(わかりづらい)。

 

上映後、クリスピン・グローヴァーはこの作品の原作者であるスティーブン・C・スチュワートは「障害者」としてこの映画を撮ったのではないと強く語っていた。

「ほうほう」と思うとともにこれが厄介なのだ。

なぜそう思うかというと、クリスピン・グローヴァーが何度もそのようにスティーブンの考えを代弁しているのに、質疑応答で「日本には『24時間テレビ』というものがあって・・・」という話しが出たり、「障害者のスティーブン」というレッテルが自然と僕らの中で出来上がり、それが僕らの視界の前に立ち塞がっているというのを非常に感じた。

 

また、映画の中で、スティーブンの言語はほとんど聞き取ることができない(「I love you」などの簡単な英語は何とか聞き取れる)。しかし、なぜかスティーブンの言葉を女性が理解していたり、物事がうまく運び過ぎたり、それを目の当たりにしたとき、少なくとも僕の頭の中には「『障害者のスティーブン』によるこれまでのルサンチマンと願望が生み出した妄想」として考えてしまうのだ。

 

スティーブンがこの映画で表した怒りは、何年も看護施設に入れられ自由を与えられなかったというところから来ているらしい。そこから来るスティーブンの怒りと、我々の目の前に立ちはだかる無意識なレッテルの壁、なんとも距離を感じたりする。

 

この映画を見た後、辺見庸がここで語っていたことを思い出した。

D.culture | すべての人間は障害者である。

「病院という閉域は、刑務所や拘置所、学校同様に、人と人の関係性がいわば制度的に偏方向的になりやすい。患者と医師、囚人と看守というように<見る>と<見られる>が不当にはっきりします」(「自分自身への審問」)。

 つまり、スティーブンがずっと体験してきたのはこのようなことなのだろう。

そして、映画を通して私たちは自然といろいろな意味で「見る」側となってしまっている。

ここに生まれるズレが言い様のない、ひっかかりを僕の中に残している。

 

この辺見庸のインタビューの中で、聞き手が「ホモ・サケル」という言葉を出している。

ホモ・サケル」とは「剥き出しの生」と言われる。

multiport.cocolog-nifty.com

『It is Fine! EVERYTHING IS FINE.』は「剥き出しの生」そのものなのではないだろうか。

 

また、この映画を見て、昔読んだ本を思い出した。

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https://www.amazon.co.jp/最重度の障害児たちが語りはじめるとき-中村尚樹/dp/4794219997#customerReviews

新約聖書ヨハネによる福音書は、「はじめに言(ことば)があった」という一文からはじまる。

聖書が真実かどうかは置いといて、言葉が世界の始まりだというのは興味深い。

スティーブンが何を話しているのか、その言葉をは僕たちには聞き取れない。

しかし「言葉」というものは、口から出て空気を振動させて相手の耳に伝わることが前提になっているのではない。

「言葉」は「アート」なのである。

「アート」世界を創る。

つまり「剥き出しの生」そのものなのだ。

 

僕たちはいつまで「見る」側なのだろうか。

「大丈夫!すべてうまくいく!でも、お前は大丈夫か?

このように訴えかけられているように感じた。

 

 

このような作品に出会えて、僕はとても嬉しく思っている。

 

 

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